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2013年5月5日日曜日

やまねこ通信271号 伊那谷の奥、気流の通う里、大鹿村を網野史観から読む


@@@やまねこ通信271号@@@

憲法記念日に、長野県下伊那郡大鹿村に地元の歌舞伎を
見に行った。国道とはいえ、途中からセンターラインの
ない一車線の道。ところどころ路肩が崩れかけ、赤いパ
イロンが立ててある。対向車に配慮しながらの、ヒヤリ、
ユルユルドライブの連続。

出発する前にエピソードがある。
通信でお伝えしているようにやまねこは腱鞘炎で右肘の
痛みをかこっていた。やがて膝の痛みも。するうち、友
人のたけさんから連絡。

「ヘトヘトになった時に行くと、なかなか良いのよ。や
まねこさんも気が向いたら行ってみない?」

たけさんのお勧めで、これまで良くないものはなかった。
早速電話予約を取って駆けつける。里山の中の住宅地。
「健康教室」の看板。

師匠は女性、気功の先生だった。週1度、2、3回通う
うち、腱鞘炎の痛みが消えた。今は膝の痛みを診てもら
っている。

大鹿村に向かう当日、授業を終えての午後、健康教室に
赴き、気を送っていただく。するうち玄関に声が。聞き
覚えある声が隣の施療台に横たわる。たけさんだった。

大鹿村に向かうことを話すと、問わずがたりに気功の師
匠が高遠の向こうの長谷村のことをお話になる。いたく
詳しい。そのあたりのご出身なのだった。

気功の療法のお陰で、少し気が通うようになったやまね
こは、伊那谷の奥、気流の流れる里に向けて出発したの
だった。

大鹿村の入り口分杭峠には、磁気ゼロ地点という場所が
ある。何らかの鉱物が強力な地場を形成しているらしい。
膝の痛みが軽減した折に、時間を作って是非とも訪れな
くては。

その晩は山塩館に宿泊。控えめで簡素な造りの中に、食
器やテーブル、額や置物のひとつひとつが吟味され、豊
かさと歴史の奥行を感じさせる旅館だった。

大鹿村を走る国道152号線は、中央構造線に沿って走って
いる。このことから分かるように、大鹿村は地理的にいた
く興味深い土地。異なった地質が合体した箇所が露出し、
博物館もある。

海から遠い土地なのに、鹿塩(かしお)という土地に塩
水が湧出している。この塩泉の存在が、大鹿村の歴史を
形作ることになった。

最も古い伝承は、諏訪大社の祭神、出雲の大国主命の子、
建御名方神(たけみなかたのかみ)が建御雷神との力く
らべに負けて出雲から洲羽(諏訪)に逃げる際に一時的
に滞在していたとの物語。

鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに、鹿
が飲む塩の泉を発見したとの伝承がある。ここから見る
と、広い意味で諏訪大社文化圏なのだ。

南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が
この地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って
信濃宮方(南朝)の本拠地となったとのこと。

するなら、春の歌舞伎の演物『奥州安達原二段目宗任の
段』は、地元物なのだな。

江戸期には、大河原村・鹿塩村の2か村は、徳川幕府の直
轄領(天領)で、美濃国久々里の千村平右衛門預かり地
として幕末まで続いた。山塩という貴重な産物のゆえだ
っただろう。

最後に、直近の面白い話。隣接する松川町との合併案が
登場。けれど住民投票の結果、合併反対が多数をしめた。
だから今も大鹿村である。

人口は1970年、3030人、
1980年、2322人、
1990年、1802人、
2000年、1522人、
2010年、1160人、

大鹿村の人口は、30年で半減、40年で6割減である。
けれど一昨日の話では、外から若い世代が流入し定住する
傾向が目立つという。年二度の村歌舞伎がはずみとなった
のだろうか。うまくゆくといいねえ!

●塩水の泉があって、免許制度を生み出した明治期以後、
温泉が開かれたと語られている。けれどそれ以前から、こ
泉が大鹿村のあらゆる富の淵源をなしてきたことは、
疑う余地がない。

地質の異なる小渋川の両岸。狭い平野だから水田が少
ない。米作中心の旧来の歴史で眺めるなら、石高低い
寒村である。

けれど歴史家網野善彦氏の「網野史観」で見るなら、近世
のこの国の富は、米の収穫だけではとても量りきれない。

むしろ百姓とは、百のナリワイのこと。日本海側の廻船問
屋の北海道と京都をつなぐ北前船の生み出した量り知れぬ
富。それが能登半島の突端という辺境の地に、豊かな輪島
塗の工芸を育てた。能登半島、時国家の調査こそ、網野史
観の出発であった。

鍛冶屋、木地師、旅籠屋、商人などのあらゆる生業が、富
を生み出しながら、石高には記録されなかった。この隠れ
た富が、近世の社会を動かしていたのだ。

やまねこはこの網野史観から眺めて、大鹿村の豊かさを感
じた。さらに中央構造線を伝う細い道路とはいえ、諏訪、
高遠につながり、松川を通って飯田、豊橋と太平洋側に抜
ける文化の十字路であるのだ。

天竜川上流の小渋川流域。大鹿村は小渋川と青木川の合流
地点である。小渋川の河川敷に、歌舞伎の観衆の駐車場が
あった。芝にも似た緑草が刈り揃えられ、きれいに掃き清
められた広々した駐車場。

ふと川の上流を眺める。両岸に里山が幾つも重なる向こう
に、雪を頂いた峯が真っ白に輝いている。

ああ、あれが赤石岳だったのか。小渋川は赤石岳の雪解け
水を集め、青木川とここで合流し、天竜川に流れ込んでゆく
のだ。

ウィキペディアで手っ取り早く大鹿村についてのおさらい

小渋川流域から白雪を冠した赤石岳を望む(ウィキペディア)



うらおもて・やまねこでした



2 件のコメント:

  1. 面白かった。そうだったのか・・・

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    1. 匿名様

      どこかで聞いたセリフ。
      そうだったんですよ!
      またのお越しを。

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