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2012年11月22日木曜日

郷土料理と「家元」の誕生、「十代に何を食べたか?」3杯目の「おかわり」


@@@@やまねこ通信234@@@@

今朝8時半ごろだった。車内の温度計は零下2度。
9時から、ちの男女共生ネット、1124日(土)第4
勉強会・料理の会「十代に何をたべたか?」のメニュー
会議を開催、8人の仲間が参加。

献立は、のたもち、えごまもち、塩イカとキャベツの酢
の物、油揚げ巻、肉入り甘み味の豆腐汁、寒天よせ。

●メンバーが集まって、料理の話を始めると、同じメニ
ューでも、家庭によって作り方、材料、味付けに、様々
な違いがあることが判明。当たり前のことである。

話は変わるが、結婚して他の家へと入ってゆく女たちに
とって、義母との台所での「闘争」は大きな試練の場で
ある。

「闘争」の生まれる切っ掛けの多くが、料理の仕方、味
付けに関して、「私の仕方が正しい」「お前は間違って
いる」という、「正統」をめぐっての闘いであることは、
やまねこがいくつもの家庭でいくども目の当たりにして
きた通りである。

「正統」が登場すると同時に、「異端」が生み出される。
味付けの「正統性」の主張はえてして、味付けをする「
家」の正統性、家が生み出す親族の「人格」の正統性に
まつわる議論に発展することは、少しも珍しいことでは
ない。

その結果、毎日の台所で、「このような料理をつくって
恥じることのないAの家の者は全員、愚劣だ」と、陰に
陽にほのめかす矢のような言葉が交わされることも日常
茶飯事である。

ちの男女共生ネットの仲間たちは、こうした「闘争」の
可能性を未然に避けた。それぞれの料理を担当する「料
理の賢女」を4人選び、全面的に信頼することにした。

4人の「料理の賢女」には、外野席からどのような「異論
」「反論」が投げられても、恬としてこだわることなく、
「自分の家の料理」を黙々作る様にお願いした。

当日は、それぞれの「料理の賢女」が「家元」なのである。
誰かの家で日常的に食べられている料理が郷土料理である。
各家庭が「家元」である。その正統性を示す根拠は、調理
する人々自身が調理し続けている事実以外に存在しない。

外部の誰かに、「正統」の「権威」を押しいただく必要は
い。
この郷土料理の多様性の水平な広がりを、垂直軸に置き換
え、上下の価値をつけたところに、「家元」が誕生する。
自らを頂点に位置づけ、そこから利益を得ようとする縦軸
の「家元制度」が生み出された途端、真と偽、正と負、
と劣の価値が二項対立として生み出され、求心力と排除の
力が発動する。

京都の料理に「家元」がないと同じように、茅野の郷土料
理にも「家元」は存在しない。
だからこそ、1124日の料理の会では、4人の「料理の賢女」
に「一日家元」になっていただく。

「家元」に対して、誰ひとり、「ああしろ!こおしろ!」
との咎めだてはできまい!当日は、差異を楽しむ約束の一日
となる予定である。どうか、お楽しみに!

●次は、「十代に何を食べたか?」三杯目の「おかわり」
です。

ヒグマの好物と北国の珍菜   
(北海道士別市、ふじこさん、60代後半、調布市在住)
北海道、1954年7歳~12歳頃の話です。
子供の頃、自宅近くにヒグマが飼われていて、私の友達だっ
た。
ヒグマの好物にコクワ(サルナシ)、山ぶどうがある。コク
ワはキーウイより小さく形も味も似ている。米びつに保存す
ると熟して一層甘くなる。山ぶどうは、瓶に詰めて棒で突つ
き発酵させて葡萄酒にする(発禁だった?)この時(7歳)
すでにお酒と発酵食品に目覚め、後に藍染め発酵の神秘の世
界に導かれる始まりだったかもしれない。
キノコの季節になると思い出すのは、郷里北海道の山菜採集
に野山を駆け回った事だ。落葉キノコ、ぼりぼり、ラッパし
めじ。7歳頃から山入りに夢中。小学校のあだ名は「ウルシ
女」(山に入る度に漆負けで体中湿疹まみれだった為)。他
にふき、ワラビ、アイヌネギ(別名行者ニンニクはアイヌを
差別して行者にしたとも)。珍品の山わさび(西洋わさび)
は土手で掘って来て、擂って白飯にかけて食べる。「野山を
駆けっこし、森に入る」皆これすべて現在、古代の繊維を探
求する源になっている。
 
*染織の仕事の原点が、ヒグマと親しんだ過去にさかのぼる
とのお話。野山を駆け回るのは子ども時代以来とのこと。


10代に何を食べたか?
    (広島市、としえさん、50代後半、松本市在住)       
幼い頃の食生活が成人になって大きく反映することを痛感し
ています。食育を言われる昨今、食事での躾、マナーも含め
て重要だと思います。さて、西日本・広島で10代を過ごし
た私は、やはり魚は生きの良い物を食べていました。印象的
なものは、漁師さんが釣ってきたしゃこを港で茹でて売って
いたことです。(ました)。それを買って来て、茹でたてを
食べたときの(て)美味しかった事!又、瀬戸内海のたこは、
あまり大きくなく、歯ごたえがあり、とても味わいがありま
した。
肉は西の方は牛肉の文化かと思います。松本に嫁いで初めて
食べたカレーが豚肉だったのには驚きました。広島では牛肉、
時には我が家は牛すじで作っていました。牛肉料理で好きだ
ったのは、牛肉のテールスープです。時間をかけてことこと
煮たテールスープは絶品でした。近所にお肉屋さんがあり、
テールが入った時は、母が作ってくれた思い出があります。
メニューはやはり父親中心でした。毎日晩酌する父がお刺身
(白身)を食べていました。父は鶏肉嫌いでしたので、鶏肉
料理はほとんどなく、煮物に入っているくらいだった記憶が
あります。広島では鶏肉の事をかしわと呼んでいたことを思
い出しました。これを書きながら、懐かしいテールスープが
食べたくなりました。

*関西と関東の味覚の違いは大きいですね。広島から松本へ
の移住は、カルチャーショックだったのでしょう。

10代に何を食べたか
 (岡谷市、まちこさん、60代前半、茅野市在住)
私は岡谷市に生まれ育ちました。子供の頃我が家では、毎
朝搾りたてのヤギの乳を飲んで一日が始まりました。近所
にヤギを飼っているお宅があり、そこのおばさんが朝搾っ
たばかりの乳をビンに入れて毎朝届けてくれました。朝食
には、これまた朝産んだばかりの卵や、近くの農家でとれ
た野菜が一杯入った味噌汁、煮物、漬物などが並び、カル
シウムを取るためだったのでしょうか、毎朝のように小女
子の佃煮を食べていました。  
 我が家の昼食は、決まって麺類でした。そのため結構大
きくなるまで、どこのお家も昼食には麺を食べているのだ
と思い込んでいたほどです。時には祖母が自分でおそばや
うどんを打って食べさせてくれて、皆で美味しいねと言い
ながら食べたのを思い出します。
 私のお気に入りのおやつは、刻んださつまいもの入った蒸
かしパン。時々中に黒糖が入っていて、食べると溶けた黒
糖が口の中いっぱいに広がって、とても美味しかった思い
出があります。
 夕食のメニューで好きだったのが、ミンチにした鯨肉を使
ったドライカレー。昔は鯨肉を使った様々なお料理を食べ
た記憶がありますが、今ではなかなか食べられなくなって
とても残念です。
 我が家は大家族で、しかも祖父が食事にうるさい人だった
ので、毎日祖母を中心に母や皆で食事の用意には十分な時
間をかけて、贅沢な物ではないですが、いろいろなお料理
を作っていたように思います。お陰で私も弟もまったく好
き嫌いなく丈夫に育ちました。その点はとても感謝してい
ます。

山羊乳で一日が始まり、うどんがお昼というお家の習慣。
時代に見合って手を凝らした料理の様子がよく分かって、と
ても興味深く思いました。


こども時代に食べたもの
(茅野市、ひろこさん、70代後半)
私が初めて父の郷里、茅野の御柱を観に、この地に来たのは、
昭和19年の春休み、国民学校4年生、10歳の時である。
始めての御柱は雪で泥んこの道を大きな柱を引っ張るだけ。
少しも面白くなかった。
同行したのは父と2歳上の姉と私の3人。父は戦時中の国防
色のカーキ色の詰襟だった。
父は4人きょうだいで、二人の姉が八ヶ岳のふもと茅野に住
んでいた。私はこの旅をきっかけに、同年の女友達に出会い、
それ以後伯母の家にずっと住むことを選んだ。伯母は料理が
上手、面倒見が良い人で、その後姿から私は多くのことを学
んだ。次に書く料理も、この伯母から伝えられたものである。
「いも転ばし」
終戦の時、私は5年生。4年生頃から毎日の食卓のおかずは
貧弱だった。薯転ばしのことを覚えている。材料はじゃが薯
五六個、人参、ねぎ少量。皮をむいた薯をつぶし易い程度の
横2㎝、縦1㎝の短形に切り、よくゆで、茹であがる寸前、
人参ねぎを小さく切って散らす。砂糖、塩、醤油などで鯵を
ととのえ、小麦粉を100CCほどを水でダマにならぬように
溶き、弱火の料理に入れて、かきまわす。油45滴入れると
滑らかな味わいになる。老人、子どもが大好きだった料理。
諏訪地方で一番のご馳走で客をもてなすのに最適な料理はの
た餅。別名ずんだ餅とも言われるが、正式にはのたである。
まず、うるち米半分糯米半分のご飯を炊き、すりこぎで(半
殺し)程度につぶす。畑でとれた枝豆(早生)の枝豆をさや
ごと、大鍋で柔かめに茹で、豆のみ取り出し、すり鉢、すり
こぎで多少の水を入れながらつぶす。(最近はフードプロセ
ッサー等で最初からつぶす人がいるが、ある程度つぶした方
が風味が損なわれない。)
つぶしながら砂糖と塩を適量に幾度も味を確かめる。熱い半
殺しのご飯にのたを載せ、食す。豆腐汁、漬け物などがあれ
ば最高。枝豆のある夏にのたを作り、味をととのえ、冷凍し
て、正月に食べる人もいる。
ねんびろ
終戦直後から一年くらい、田や畑の土手に自生する草ねんび
ろやかんず、板んどりなどの食べられる草という草は取りつ
くされて、土手や道端の食べられる草を探すのは困難だった。
5月、畑の隅や土手に自生するねんびろは酒を飲む人の好
物として料理された。群がって生えるねんびろを根っこごと
こぐと、白い丸い玉がついている。
この玉を丁寧に洗い、酢味噌和えするととても美味しい。又、
茎も茹でて3㎝ほどに切り、酢味噌で和えると一品となる。
ねんびろは強く、霜が降るころまで自生して良いおかずにな
るが、最近は見向きされないのは残念である。

*子ども時代に家族を選び直したとのお話しが驚異です。
茅野の玉川から茅野駅まで歩き、上諏訪駅下車の高校に通っ
たひろこさん、今も健脚とのこと。

食の思い出    (茅野市、ふさじさん、60代前半)
 昭和二十六年、小淵沢で生まれました。疎開してきた両親
は、五人の子育てに苦労を惜しまなかったようです(私は末
っ子)
・朝のめざまし:囲炉裏の中から、さつまいも。兄弟で分け
合って少しずつ食べてから、朝の掃除、それから朝食でした。
・行商:月に一,二回甲府から行商のおじさんが来ました。
その日の夕飯は、さんまの炊き込みご飯、釜の湯気と一緒に
いい匂い。
・塩むすび:よく焚き木拾いに持って行きました。
・カヤの実:庭には大木のカヤの実、広がった根っこの上で
大人のお喋り、子どもの本読み、おやつを食べ、語り、雨宿
り、時々実が落ちてきて我先にと追いかけました。
あの頃は、野山、田畑、川、池、土手にもシンプルな食材が
溢れていました。

*あたり一面、食べ物にみちあふれた自然界の情景が眼に見
えるようです。


●この後に、もう一回、「おかわり」をお送りいたします。


うらおもて・やまねこでした。







2012年11月17日土曜日

血圧の薬から解放された!「十代に何を食べたか?」二杯めのおかわり


@@@@やまねこ通信233@@@@

この6年ばかり、やまねこは血圧を下げ、コレステロール
を下げるために、2種類の薬を眠る前に服用していました。

「薬をのむと一生続けなくてはならないよ」
こんな風に聞いていたから、初めは躊躇がありました。
「薬漬け」医療への懸念もためらいの理由でした。

けれど何といっても、
「自分がついに血圧の薬に依存する年齢になったのか!」
この重い現実を自分に受け容れさせるために、時間を必要
としたのでした。

「血圧の薬」はまぎれもなく、「老化」の記号だったのです。

血圧を高いままに放置すれば、動脈硬化が進行し、コレス
テロールも高ければ、脳梗塞など脳血管障害の危険を増大
すると医師が説得。まともに考えれば、のんだ方が良いの
でしょう。

薬をのむようになって、できるだけヨーガやウオーキング
をしました。けれど、血圧もコレステロールも一進一退で
した。

ところが今年初めから、数値が徐々に改善したのです。
150くらいだった血圧が120台に、そこで薬の量が二
分の一に。さらに110台に減少し、今では100台です。

3か月に一度の定期検診の医師がついに宣言しました。

「薬はもう、止めましょう!」

「ヤッター! 解放だあ!」

診察室で、やまねこは、もう少しで叫ぶところでした。

コレステロールの薬がまだ残っているものの、血圧の薬は
これで終止符!

●いったい、何が改善の理由だろう?ウオーキングは以前
とほぼ同じ。最大の変化は、アルコールを飲まなくなった
こと。朝食、昼食を重くして、夕食は軽くした事。
6月以後、これで体重を3キロ減らしました。

それに、6月以後、肉をやめて魚ばかりが食べたくなったこ
とと関係があるかもしれません。

この6ヶ月、鯖、鰯、鯵、サンマなど皮の青い小魚ばかりを
毎日食べています。調味料は塩、醤油、味噌、酢ばかりで、
添加物の入った食材は一切使いません。

魚も野菜も加工品は使いません。これって、どこの、いつの
時代の料理だろう。

何を隠そう、1944年生まれのやまねこは、1950年代、1960
代前半、自分が十代だったころに母が作った料理を、繰り返
し作っているのです。

台所で毎日一家の食事を作っていた母になりきって、何も考
えずに調理台で手を動かすと、焼き魚などの魚料理が指先か
らわき出してくるのです。


●「十代に何を食べたか」の400字作文を募集しています。
やまねこ通信231号に、早速お送りいただいた寄稿が、あまり
に面白くてひとりで抱えているのがもったいないので、掲載
しました。

前回が大いに好評だったので、今回は、その「おかわり」二
杯めです。ちの男女共生ネットの頼もしい仲間たち、それに
活動で知り合った、先輩の女性の方々の寄稿を次に紹介します。


十代に何を食べたか
(長野市、やよいさん、50代前半、茅野市在住)                    
私の十代は大阪万博に始まり神戸ポートピアで終わる、とい
う時代です。
71年にはマクドナルドの1号店が銀座にでき、翌年食べに
行きました。なんとおいしいものだろうかと姉と感激したこ
とをよく覚えています。
何を食べたか…自分の家庭での食事はごく一般的であったと
思います。母は東京の下町育ち。家にはお手伝いさんがいて
料理をしていたようで、母自身は戦後数年間療養生活をして
いたため、母にとっての料理の先生はNHK「今日の料理」の
テキストであり、「友の会」で教わってくる料理であったと
思います。なので母の作る料理は郷土料理ではなく、当時の
ティピカルな家庭料理でした。クリームシチューやハンバー
グ、てんぷら、カレー、ラーメン…わざわざここに書き連ね
る必要もないメニューです。
私にとって「十代に食べたもの」に給食の思い出が大きくあ
ります。当時は食パンが3枚にひじきの煮つけやクジラのオ
ーロラ煮、豚汁など、今思うとずいぶん変な取り合わせの献
立でした。学年一番からだが小さかった私には、残さず食べ
ることは苦行そのものでした。毎日毎日掃除の時間も、次の
5時間目になってもひとり給食を食べていました。中学に入
り、担任から「パンは持ち帰ってもよし」と言われ、天国だ
と思いました。(実際、素晴らしい学友、教師に恵まれ幸せ
な中学校生活でした)今の小学校でも私のような苦行給食を
している子がいるのでしょうか。
17歳から20歳までは自炊をしていました。試験前などはカッ
プラーメンやククレカレーに大変お世話になりました。下宿
近くに大きな商店街があり、肉屋さんでコロッケを買ったり
もしていました。このころにコンビニができました。しかし
コンビニでお弁当を買うことは、当時まだあまりなじみがな
かったように思います。朝、パン屋さんでおいしいサンドイ
ッチを買って学校に行き、夏の日の帰りには友人とかき氷を
食べに寄るのが日課でした。短大時代には食品成分表片手に
料理をし、2週間で3キロのダイエットに成功。このころか
らダイエットという言葉がもてはやされました気がします。
ある意味流行でした。今ほどローカロリー食材が売られてい
なかったので、工夫しながらの献立作りが大変楽しかったで
す。                  

やまねこメント:戦後の消費文化の歴史の上に、一家の食
卓の歴史が重ねられて、味わい深い文章ですね。「給食弱者」
の事は話には聞いたけれど、これほどだったとは!貴重な証
言ですね。20代でダイエットをしたのですか!自分で工夫し
て成功するとうれしいですね。身体のセルフコントロール!
 

十代に食べたもの
(松本市、はるこさん、50代後半、茅野市在住)
安曇野の端(松本)で、高度成長期に十代の大半を過ごした。
10年間の変化は大きい。幼児期から味の素、インスタントラ
ーメン、魚肉ソーセージ等で各種添加物の洗礼を受けている。一
年は豆、栗、柿、桜餅のお茶、ブリの雑煮に始まり、七草粥、
繭玉作り、鏡開き、小正月、節分、やしょうま、月遅れのひ
な祭りの桜餅、端午の柏餅、春秋の彼岸、田植え(共同作業)
でジンギスカン、七夕饅頭、お盆の干揚げと切昆布の煮物、
運動会のお稲荷、秋祭りの鯉こく、冬至のすいとん入り南瓜
(いとこ煮)、クリスマスケーキ(バタークリーム→アイス→
生クリーム)、年取りはブリ(塩焼きに刺身、アラ煮)だった。
折々の餅つき(豆餅、氷餅、草餅)お茶請け用にカリカリ梅
漬け、奈良漬、かりんの砂糖漬、なすの粕漬、お葉漬、たく
あん漬(かけ菜も)、福神漬、干柿作り、干瓢引きも季節の仕
事だった。慶事には三ツ盛、弔事には饅頭の海苔巻、ひじき
の白和え、鯉の旨煮など何れも〆はそばかうどん。
誕生日には、家族の好物の寿司(箱寿司から出前の寿司に)
と手作り餃子(各人申告数包む)。おやつは、薄焼き(残り
ご飯、卵、粉、味噌)、ドーナッツ、スポンジケーキ(クリ
ーム無)、アップルパイ、高校生ともなるとラーメンソフト、
パフェばかりかレストランで一端にグラタンの焼加減を云々
する時代。焼きたてフランスパンを手に映画三昧もこの頃。
ファストフード店も出来た。以降今と変わらない。普段の地
域の食事は、鉄火味噌、胡瓜の粕もみ、塩いか、蛍烏賊と葱
のぬた、野菜の卵とじ、とろろなど、肉は豚、鶏が主、魚は
青魚が主で、今より揚げ物が多かった。運動部の兄の為、豆
類、イモ類で、増量、多量。お陰で私自身はおかず喰いとな
った。
中高生の頃、母が食改に入り、減塩レシピ、貧血予防のレバ
ー料理、ミルクレシピ、凍り豆腐、寒天、30品目運動等目先
の変わった物を作ってくれたり、脱化学調味料をしてくれた
のは良いが、教室の前リハーサルと称して同じ料理が続くの
は家族に不評だったのが懐かしい。 

安曇野の伝統的な料理が詳しくわかります。スゴイなあ。
母上の食改活動が、食卓に反映されたのですね。今では、は
るこさんも食改に。


薄焼きの思い出   (諏訪市、せつこさん、70代後半)                      
私は清水湧き澄める清水町に生まれ諏訪から他所へ一度も出
たことのない「井戸の蛙大海を知らず」の人生です。神社と
神社に守られ神社の裏山は山菜の宝庫でした。
今は根が取り尽くされてしまい、摘み草は根なしです。  
9歳で終戦を迎え文字通りの無い無い暮らしの生活でした。
もっと食べたいなと思っても、分け分が決まっていた生活で
した。母の作る薄焼きの具は裏山へ毎日摘みに行くねんびろ
(ノビル)・韮、なずななどです。井戸で洗ってお勝手に持
ってゆくと、ほめられました。いろりを囲み、ほうろくの上
でしゃもじ一杯づつ焼いてくれる薄焼きを見つめていました。
お皿に一枚づつ取り六枚揃うと父の号令で大事に大事に食べ
ました。冬になると畑の根菜類が入ったりご飯も入りました。
ある時は主食になったり、おやつになりました。お焼きの上
に味噌を延ばしたりしました。一日三食プラスおやつであっ
ても大好物の食べ物でした。今も。
追記:今でも大好物は薄焼きです。具はぜいたくにも残りも
ので、あの頃より味さえ少々ぜいたくになってしまいました
が、家族の主食であり、おやつです。
親の子どもであった日々を、とてもなつかしくて、温かいも
ので、いっぱいになりました。こんなすてきな時間をありが
とうございました。24日のメニューも地産地消の地域食です
ので、みんなで作ってみんなで食べられることを、楽しみに
しています。

子供たちが裏山で取ってきた山草が、うすやきになって食
卓に並び、家族全員のお腹に入ってゆく。なんと手ごたえあ
る仕事だったでしょう!「親の子どもであった日々」!


野沢菜漬けと祖母 (岡谷市、しづえさん、80代前半)                   
農協で売られている野沢菜の根の部分が、中途で切り落とさ
れおり、一瞬勿体ないと思った。昔の農家は作物を粗末にし
なかったが、今では多分消費者への心配りでしょう。
晩秋には、どこの家も大きな四斗桶にたっぷりと御葉漬けを
作った頃が思い出される。
「霜降りといってな、塩はこんな塩梅に降るもんだ」と教え
ながら、小柄な祖母は踵を持ち上げながら、底深くまで菜を
入れた。重しを幾つも置くのは、男手を借りたと思う。
一段落すると、根の部分「かぶ」の髭根をこそげ、薄切りに
して、筵(ムシロ)に並べて乾燥させた。
冬場の惣菜の足しに、竹輪、油揚げ、ささげ豆等と煮たり、
和え物、味噌漬けなどに利用した。
短い菜も茹でて刻み、丸めて凍らせておき粕汁に入れたりし
た。粗末にしないことで作物の命を戴くことへの感謝を教え
られたようにおもう。
この時期になると、良く働き、最後まで自分の事は自分でし
てポックリ逝った祖母が偲ばれる。

深い四斗桶の底に手を伸ばすために、かがみこんで踵を持
ち上げておられたお祖母さま。似通った光景がやまねこの身
の回りにもありました。漬物は大仕事でしたね。

                                 
イナゴは美味しい!               
 (茨城県稲敷市、ちづこさん、70代前半、茅野市在住
友達の友達(土地の方)が作られたという“いなご”を 頂
いた。
お友達は食べられないのだという。私に まわってきたのだ。
私も エエツと思ったけれど、 容れ物の蓋を開けてみて、ひ
とつ?摘まんで食べてみてびっくり、美味しい!!
いい味なのだ。心のこもっている丹念に煮あげた熟練された
味に、とうてい自分には及ばない 腕の凄さを感じた。
それと、なんと、いなごの小ささにも驚いた。
私が幼稚園の頃だっただろうか、父の実家(茨城県霞ヶ浦畔)
に夏休みで行った時、祖母に連れられて田んぼにいなご取り
に行ったことを思い出した。
その田舎のいなごは大きく、3 4 センチもあり、頂いた
諏訪のいなごの三倍はあっただろうか。
白い布の袋の先に竹筒が差し込んであり、取ったいなごはそ
の竹筒に入れると、袋の中で 勢い良く暴れ回るので、恐い
思いで持っていたことを覚えている。夜になるとそのいな
ごは、羽根と足をもがれて食卓に出てくるのでした。
諏訪のいなごを何日も大事にいただきながら、気候風土の違
いによって、同じ種類の生物が、こんなにも違って、種を保
存してゆくのだという自然の世界を、自分の目で見ることが
出来てよかったと思いました。
小さな発見の歓びです。

野原で取れる貴重な動物性蛋白質であるイナゴ。袋の先に
竹筒を付ける装置があったことを初めて知りました。


10代に何を食べたか?     
(長野県下諏訪町、ふさこさん、60代前半、茅野市在住
子どもの頃の食べ物の思い出はあまり多くない。食べ物其の
物の記憶より、他のことを思い出すとそこに食べ物があった
ことを思い出す。幼稚園に行っていた頃か、台所の丸いちゃ
ぶ台を家族が囲んで食事をしていたが、ちゃぶ台の下に畳ご
ざを敷いてあった。家の中を走ってその茣蓙につまづいた私
は左目の目尻をちゃぶ台の縁にぶつけて何針か縫う傷を負っ
た。またある時、ちゃぶ台の横に置いてあった大きなお釜の
横で転んで、炊き立てのご飯の中に手を突っ込んでしまった。
熱くて泣く私の手を父が味噌の中に押し込んで熱を取ってく
れた。お釜はごはんが覚めないように、六角形の木の枠のよ
うな台に載せてあった。具沢山の味噌汁を用意してくれてい
たような気がする。
小学校の給食で出る脱脂粉乳の匂いが嫌で、飲むのが辛かっ
た。残すことは許されず、内緒で何回か捨てたが学校の流し
に捨てた時の記憶は未だに残る。今も牛乳はあまり好きでは
ないが、あの匂いの思い出のせいだろうか。
小学校の頃、学校から帰る途中にウコギの垣根のある家があ
った。春先、垣根から若芽をつんで持って帰った覚えがある。
多分茹でてお浸しかなんかにしてもらったのだろう。野辺山
あたりに蕨とりに行ったからそんなものを食べたに違いない。
山蕗の煮たものは父が山から取ってきた蕗を煮た。
家の裏に畑があって、父母がジャガイモやモロコシ、ネギな
どを作っていた。
近所にうどんを作って売っている店があり、太いうどんを買
いに行っては家で煮て食べた。サツマイモご飯や鶏肉やニン
ジンなどをいれた炊き込みご飯も良く食べた。鳥肉は家で飼
っているにわ鳥を〆て料理したこともあった。ウサギ肉も食
べたような気がする。秋には山きのこ(じこ坊)が一杯入った
キノコ汁を食べた。茄子が必ず入り、ジャガイモやニンジン
も入っていた。
学校から帰ると、大きな戸棚の中におばあちゃんが作ったお
焼きがおやつとして用意してあった。
小麦粉に炒った大豆を入れてフライパンで焼いただけのもの。
ちょっと焦げてもう冷たくなっていたのであまりおいしいも
のではなかったがお腹がすいていたから毎日食べていた。た
まに水あめがあって 箸でからめて食べさせてくれた。
夏、高木の石投げ場あたりの農家に母と自転車を曳いて桃を
買いに行った。荷台に木箱を縛り付けていたから、自転車に
は乗れずに二人で今の国道20号線の旧道を歩いて行った。今
でもその道を通るたびに桃のことを思い出す。秋の果物はリ
ンゴ。国光や紅玉、黄色っぽくて大きいインド林檎。
もみ殻に手を突っ込んでりんごを出す感触がよみがえる。居
間に箱が置いてあったので、現在のように部屋が暖かくはな
かったのだろう。諏訪は寒くて甘柿は出来ないと言われてい
る。渋柿を向いて干し柿にした物もおやつになった。神棚に
柿を並べておいて、寒中に熟して凍った柿の薄皮を剥いで食
べるのはおいしかった。
子供の頃、諏訪は牛肉ではなく馬肉(さくら肉)を食べてい
た。ご馳走と言えばすき焼き(さくら鍋)かさくら肉の煮込
み。キャベツと塩イカの塩もみがセットのように並んでいた。
馬肉が牛肉より高級品になったのはいつ頃からかしら。
大晦日の歳取りの御馳走は、こたつの上に載せた広蓋に鰤の
煮付け、刺身、よせ鍋、根菜などの煮物、茶わん蒸し、野沢
菜、沢庵、正月用の豆や昆布巻などもみんな並べられていた。
年明けの正月よりにぎやかな歳取りのご馳走は、いつもより
早い時間に家族がそろって座り、父の挨拶があってから食べ
た。父の挨拶は時局の話や経済のことなどにもふれ、「みん
な1年間それぞれに頑張った。Aは何をがんばったね、とか
Bは1年生になるなど励ましたり褒めたりして、新しい年も
健康で・・・」などけっこう長い話があって早く食べたいと
思ったものであった。 

食べ物とともに、食事をした部屋や家屋、そこで暮らした
人々の立ち居振る舞いがよみがえります。火傷した子どもの
手を、味噌樽に入れて熱を取った父上のとっさの行動。感動
的な物語ですね。小説に発展するのでは?


私が十代に食べた物  (茅野市、つねこさん、60代前半)
茅野市米沢で生まれ、育った。
高校生になると毎朝六時三十分のバスで茅野駅まで行き汽車
に乗り換え、上諏訪まで通学した。学校に着くと八時ちょっ
と前、もうお腹がすいて母の作ってくれたお弁当を食べてし
まい、お昼には講堂に来るパン屋さんのパンを買うという様
な事もあった。お弁当の中身は卵焼き、煮豆、南瓜の煮付け、
トマトやきうり、沢庵や粕漬け、昨夜のかき揚げ、鶏肉のフ
ライなど食材はほとんどが自給自足のものだった。私の家は
米や野菜の他に養鶏を営んでいたので、鶏肉や卵に不自由し
なかったのと、母が食べる事を大事にする人だったので、三
食ともきちんと色々な物を作ってくれた。手作りマヨネーズ
のサラダとか、カレー、サイダー、スポンジケーキなど当時
はこの辺りでは珍しかったものも家にある材料で工夫して色
々作ってくれたので友達に羨ましがられた。今では当たり前
の様なものが、とてもおいしく感じられ、たくさん食べて少
し太り過ぎではあるが病気をした事のない丈夫な体に育った
と思う。
事あるごとに、母の台所を思い出し、農作業で忙しい中、冷
蔵庫も電気釜もない、ほとんどすべてを手作りしたあの時代
の大変さと母の素晴らしさに感じ入るのである。

時代と地域の違いは大きいけれど、家の職業、母親の食に
対する姿勢という個別の違いもあって興味深いですね。朝の
登校時に昼食を平らげた高校時代。健康だったのですね。


●あまりにも面白い「十代に何を食べたか?」400字作文。
ご寄稿くださったみなさま、どうも有難うございました。
最後まで読んだら、お腹がいっぱいになりました。

400字が56枚の寄稿もありました。20日の締切まで、まだ
日数がありますよ。ふるってお送りください。




うらおもて・やまねこでした。