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2016年6月26日日曜日

やまねこ通信350号:昭和20年代の小学生、クラス担任の産休

@@@やまねこ通信350号@@@

 昭和20年代の小学生、クラス担任の産休

富山で4月と6月の2度滞在した。まずは4月23日から
5日間。小学校のクラス会だった。61歳の時、はじめて
声を掛けてもらった。今回は2度目である。

富山市立柳町小学校に1951年(昭和32年)入学した
1年3組の面々である。50人クラスで男子女子25人の
半々だった。平田先生4年間、村田先生2年間。20代だ
った二人の先生はどちらも産休を取った。

2年のとき、平田先生が産休。産休の先生が代理の担任と
してやってきただろうか?違うのだ。じゃあ、どうしたの?

学年は5クラスだった。学校側は、平田学級の50人の児童
を他の4クラスに分けて送り込んだ。50/4=12.5。
12人~13人ずつ、子どもたちは他のクラスにバラまか
れた。子どもたちのディアスポラである。

柳町小学校は昭和20年8月2日夜の富山大空襲で校舎が
消失し、2年後に9教室を新築して以後、年々増築していっ
た。(このことは、インターネットで柳町小学校の沿革を
調べて分かったことだ。ネットはまことに便利)。

やまねこの2年上の学年は、2部授業をしていた。上級生
午前中に授業したクラスを、午後から下級生が使ったの
だ。教室不足と教員不足の両方だったのだろう。給食はこ
の時期はまだなかったはず。

運命のお別れの日、子どもたちは自分の椅子と机を指示さ
れた別教室に運び込んだ。

50人教室はすでにぎっしりである。そこに、やまねこた
ち平田級の12人が一時的に難民児童として割り込んだの
だ。2列増やすスペースを確保するため、机と机の間の通
路が埋まってしまった。最後列は後ろの壁との間に隙間が
なくなった。休み時間に外に出るときは、机の上を渡るし
かないこともあった。

窮屈なのも困ったが、別のクラスの授業では、お客さん同
然で、肩身が狭かったことは忘れない。

▲5年のとき、村田先生が産休に入った。この時は教室を
移動することはなく、何人かの先生が交代で教えた。5年
になってクラス担任の指導の仕方に対して批判的な目で接
していたやまねこは、担任が産休に入って実はほっとして
いた。これで帰ってこなきゃいいのにと思っていたが、し
ばらくして彼女は復帰した。

2回も産休に出会うなんて運が悪いと、家では祖母がこぼし
ていたような気がする。

▲今回のクラス会には、女子6人男子6人の12人が参加
した。前回のクラス会を開いたとき、住所録を作成してく
れた名幹事がいた。中学の同窓会名簿で消息を調べ、でき
るだけ新しい住所を探し当てた功労者たち。

ひとりは山川禎一郎くん。富山では知らぬ人のいない山川
いもやの三代目店主。冬は焼き芋、夏は独特のカキ氷とア
イスクリームが名物で、昔から行列が絶えなかった。お客
も三代四代と続いている。
いたち川ほとりの泉町。今は4代目の息子さんに代替わり
したという。

もうひとりの功労者は名簿に書き込んで印刷した元中学教
師きよこさん。

会場は第一ホテル富山の地下1階割烹松川。
二次会はホテル内、三次会は富山市の歓楽街桜木町のなか
なか気持ちのいいお店だった。そこで12時過ぎまで別れ
がたい時間を過ごした。

1年から3年まで、クラスで緘黙児童だったやまねこ。小
学校のクラスメイトは鬼門だと思い近寄らなかったが、そ
れが実は思いがけぬ玉手箱であったことが判明。わかった
頃には、髪の毛が白くなっていたのだけれど。



うらおもて・やまねこでした。

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