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2016年9月9日金曜日

やまねこ通信365号:八ヶ岳中央農業実践大学校に、前身、修練農場の歴史を公開するように要望書を提出する

@@@やまねこ通信365号@@@
八ヶ岳中央農業実践大学校に、前身、修練農場の歴史を公開するように要望書を提出する

やまねこの仲間、ちの男女共生ネットは、滿蒙開拓平和記念館へのバス
ツアーをした。総勢27人。第19回勉強会であった。それに先立ち、
全国最多の滿蒙開拓民、青少年義勇軍を送り出した長野県内に、滿蒙開
拓の史跡が残されていないかを『長野県満州開拓史』などの書物にあた
って調べた。

その中、農村更生協会が、滿蒙開拓に向かう人々を全国から集めて訓練
するために設立した八ヶ岳修練農場が浮かび上がった。現在の八ヶ岳中
央農業実践大学校である。今日、同校のHPを開くと、設立年代と旧名・
八ヶ岳修練農場の名は書いてあるものの、活動の実態が何も書かれてい
ない。

前身の修練農場の歴史、滿蒙開拓の送り出しにどんな役割を果たしたか
の歴史が空白で放置されているのはなぜだろう?不都合な歴史として隠
蔽されてるのだろうか。
戦後71年目を迎え、全国各地で戦争の歴史の見直しが行われている。
修練農場の歴史を明らかにすることは必然といえるのではないだろうか。
歴史の調査と公開を問い合わせる必要があるだろう。7月24日のバス
ツアー前、さらにその後の調査を重ねながら、やまねこはこう思ってい
た。

▲修練農場の歴史を公開してもらいたいとの要望書をまとめ、諏訪湖記
者クラブに呼びかけ、ちの男女共生ネットは諏訪市役所で記者会見をし
た。ネットの仲間たまきさんとやまねこのふたりだった。

▲8月14日(日)、NHKスペシャル『「村人は満州へ送られた~“国策”
71年目の真実~」』が放映された。

滿蒙開拓に27万人を送り出した背景に、どんな行政機構があったのか。
この歴史を掘り起こすことが、番組の目的のひとつだった。
滿蒙開拓は、関東軍が立案した。実務は拓務省だった(拓務省は戦後外
務省となった)。全国の農家には農林省が割り当てをした。貧農対策だけ
でない省庁の思惑があり、農林省→県→村→農家へと割り当てが課されて
いった。
八ヶ岳修練農場は農林省の次官を経て農村更生協会の理事長となった石黒
忠篤が設立した。ちの男女共生ネットは、農村更生協会が設立した、修練
農場が、滿蒙開拓に果たした役割の歴史を明らかにして欲しいと要望した。

▲8月17日午前、やまねこたちは、原村の八ヶ岳中央農業実践大学校を
訪問し、学校長に面会して要望書を読み上げ、手渡した。

要望は次の通りである。

2016年(平成28年)8月17日
公益財団法人 農村更生協会八ヶ岳中央農業実践大学校 
校長 清水矩宏様

八ヶ岳農業修練場の歴史が公開されることを要望します。
戦後71年が過ぎ、戦争の歴史を見直す時が来ています。先ごろ私たちの
仲間「ちの男女共生ネット」は、参加者を募集し滿蒙開拓平和記念館を訪
問しました。女性に参政権がなかった大日本帝国の時代を体験し、戦後の
平和な社会の意味を問うことが課題でした。これに先立ち、滿蒙開拓関連
施設が県内に見当たらないかを書物にあたって調べました。

この中、原村の八ヶ岳中央農業実践大学校、貴大学校が、かつては八ヶ岳
中央農業修練場であり、滿蒙開拓の指導員訓練施設として全国から人々が
集まり、合宿する場所であったことを知りました。滿蒙開拓者養成を目的
とした、御牧ヶ原滿蒙開拓修練農場八ヶ岳分校との位置づけ。「農村中堅
人物養成」が目的でした。開場は昭和134月御柱祭りの最中。「農林省
村更生協会が全国の最高峰施設として建設した八ヶ岳中央農業修練場は
41日開場。更生会長石黒忠篤氏ら多数来賓を迎えて入場式を挙行」との
記事が信濃毎日新聞(45日付)に掲載されています。初代場長石黒忠篤
氏は農林省次官を経て、農村更生協会会長、満州移住協会理事長、第2次
近衛内閣農林大臣の経歴のすべてにおいて、農村の更生、やがては滿蒙開
拓への送り出しに情熱を傾けた人物でした。この経過が『長野県満州開拓
史・総編』に記されています。

私たちは、71年間の平和な社会を尊重し、二度と戦争に向かわぬため、
史に学ぶことの大切さを痛感し、勉強会で戦争体験聴き語りを重ねてき
ました。現在、諏訪地域、原村富士見茅野諏訪岡谷などに在住する人々に
尋ねたところ、戦争中の八ヶ岳農業修練場の果たした役割について知る人
は、ほとんどありません。今日、貴校のHPを訪問しても、開場の年と旧名
を記すのみで滿蒙開拓の記載がゼロです。戦争に関する歴史遺産が誰にも
知られぬままであるのは残念なことです。前身の八ヶ岳農業修練場の歴史
はもしかすると、戦争中の不都合な時代の遺産として仕舞い込まれている
のではないでしょうか?このままだったらそれは「負の遺産」です。

私たちは、八ヶ岳農業修練場の戦争中の歴史を市民に対して公開していた
くことを要望します。戦争中の大学校のあり方につき、責任追及するこ
とを目的とするものではありません。そうではなく、人々が歴史の現実に
しっかり向き合うことのできる場を構築することが必要と考えるからです。

すべてが公開されること。この時はじめて、若い世代が歴史から学び、自
および社会の行く末を考える場が生み出されます。この時、「負の遺
産」は、平和教育に役立つ「正の遺産」に転化します。
これこそ、阿智村の滿蒙開拓平和記念館が成し遂げつつあることなのです。

814日放映NHKスペシャル『「村人は満州へ送られた~“国策”71年目
真実~」』によって、大量の資料が貴校図書室に保管されていたことを
知りました。これら資料は早急に、古文書整理専門家アーキビストの手で、
アーカイブに分類保管されるものと考えます。その後、希望者の閲覧を可
能にする方向に向かって対応して下さることを、貴大学校の歴史公開と併
せ、念願し要望する次第です。

あの時代に問いかけてみます。
なぜ、「満州」へ行ったのですか。
今を生きるあなたに問いかけてみます。
あの時代に生きていたら、どうしますか。(滿蒙開拓平和記念館)

 ちの男女共生ネット・代表  藤瀬恭子


▲以上の要望書を提出した。宛先は学校長だったが、学校長は教育部門
の責任者、それ以外はすべて、東京にある農村更生協会の当局が判断す
るとの回答がまずは語られた。
協会からの回答が出次第、書面の連絡がもたらされる約束である。

▲さて、8月17日の要望書提出の後、早めにこのやまねこ通信で報告
をしなくてはと考えていました。
「結果はどうなったの?」
問合せくださる方々が幾人もありました。
「応援してるから頑張ってね!」
励ましのお言葉をいただき、背中を押されてもいました。

ところがなのです。
暑さが厳しいとさほど思わなかったのに、一種の夏バテか、8月後半の
やまねこに、爆睡の日々が連日のように訪れたのです。
朝起きて朝食を済ませては爆睡、昼食を食べては爆睡、3時のおやつの
後にまた爆睡、夕方にも爆睡。夕食をすませ夜のニュースを見るうちに
眠くなり10時には深々と夜の爆睡に落ちたのでした。
いくら眠ってもまだ眠い日々。全治およそ2週間。

15歳ほど年長の信州生まれの友人がかねがね吐露していました。
「自分のからだが自分のものでないみたで。使い物にならないの。
ごしてえ、ごしてえ!」

こういうことだったのか!このたび深く納得した次第です。



うらおもて・やまねこでした。




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