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2012年4月22日日曜日

フィリッピン・バターン原発の歴史、「モロンの怪物」とは、いったい何か?


@@@@やまねこ通信191@@@@

 やまねこ通信、何ら断りなく<春の昼寝>を決め込んでお
りました。その間も、見限って棄て去ることなく、絶えず
訪問してくださっている読者の皆様、どうもありがとうご
ざいます。

何を隠そう、フィリッピンから戻ると、毎日配達される新
聞を見るのが嫌になりました。311以後、毎日新聞、長野
日報、信濃毎日新聞を毎日くまなく精読し、テレビニュー
スを見続けた一年間の付けがきたのかもしれません。

何であれ、のめりこんではやがて飽きる、やまねこの「清
兵衛と瓢箪」シンドロームが顕在化したのかもしれません。

この頃、新聞は部屋の隅に積み上げたまま、一紙も開かな
い日もあります。

原発報道を中心とした「彼らの物語」の進展のなさ、「3.
11など起こらなかった」というような、対応の鈍感さに
食傷したこともあります。

この間、「私たちの物語」の立ち上げに打ち込んでいまし
た。このことについては、今後、発信いたします。

けれど、前回にお約束したフィリッピンの続報をお伝えし
なくては。
遅くなってごめんなさいね。m(x_x)m


●「モロンの怪物」バターン原発の歴史
フィリッピンで、どうやって、原発が建設されたのか。

1955年米国は、比国に対し、Atoms for Peace「原子力
平和利用」計画を紹介。これは米国が研究炉の情報、器械、
燃料を提供する計画でした。国際原子力機関IAEAは六
四年、マルコス大統領に原発建設を促し予備調査を開始し
ました。76年に正式契約、建設開始。

米国がアジアに原発を売り込んだ背景には、米国国内原発
受注が底をついた事情がありました。米国内での原発安全
性への疑問、住民の反対運動の高まりのためでした。特に、
安全性に問題多いウェスティングハウス社(WH社)は落
ち込みが激しく、そのため国外、アジア地域に原発輸出の
活路を求めたのです。

現在比国にただ一基存在するバターン国立原発公社(B
NPP)は、マニラから約七〇キロ北東、「バターン死の
行進」で戦史に名を残すバターン半島の風光明媚な海岸モ
ロンの地に建ち、「モロンの怪物」と呼ばれています。

なぜ怪物と呼ばれるのでしょう?

第一に、設置価格が契約時からどんどん高くなり、当初の
二倍から4倍に跳ね上がったことです。最初、2基5億ド
ルだったものが、76年正式契約の際には1基11億ドル
に上昇。スリーマイル島原発事故の1979年、当時のマ
ルコス大統領が、工事を一時中止させ、事故調査を命じた。
何千カ所もの課題が発見されたうち、15か所のみの改良
を済ませると、建設費は11億ドルから19億5千万ドル
と二倍に高騰。76年の2基5億の4倍に跳ね上がった勘
定でした。

この法外な価格を吹っかけたのが米国のウェスティングハウ
ス社(WH社)。同社はマルコスの取り巻きに対する賄賂工
作によってライバルGE社を出しぬいた。価格の高騰はリベ
ート分。同時期に、発注したユーゴスラヴィア、台湾の原発
と比較して十五%増しの価格でした。

マルコス政権の腐敗を悪用したWH社は、やがて一方的な価
格を要求するようになります。当時の米国大使館と米国輸出
入銀行が原子炉価格引き上げに協力しました。75年末の比
国累積赤字38億ドルは、同国GDPの24%に等しかっ
のです。

バターン原発用地のモロンの地は火山地帯であり、五つの火
山、四つの活火山に囲まれ、火口から原発までわずか九キロ
の火山が噴火すれば、溶岩が敷地内に流れ込む懸念がありま
した。

二つの活断層、地震の際の津波被害の警告、廃棄物処理の問
題もことごとく無視され建設が強行されたのです。

フィリッピンの原発計画は、米国とIAEA、米国輸銀がW
H社を後押しし、戒厳令下で、国内議論が不在の比国独裁者
マルコス周辺に、巨額のリベートをばらまいて設置を認めさ
せたものだったのです。

以上、非核フィリッピン連合事務局長、弁護士でもあるコ
ラソン・バルデス・ファブロスさんが、1993年「ノー
ニュークス・アジア会議」で報告したリポートによってお
伝えしました。

コラソン・ファブロスさんの伝える「モロンの怪物」はな
ぜ怪物と呼ばれるのでしょう?

それは傾きかけた米国企業WH社が、比国の政権腐敗を利用
して、法外な価格で原発を売りつけ、比国経済を植民地さな
がら貪り食ったからでした。

「怪物」とは、WH社の姿をした米国のグローバルな覇権政
治と新自由主義経済による世界支配の別名だったのです。

1984年に二十三億ドル使ってほぼ完成したバターン原発
は、試運転が行われていません。

やがて1986年、マルコス政権崩壊とチェルノブイリ原発
事故の両方が「モロンの怪物」を襲い、ピナツボ火山爆発も
重なりました。

マルコス打倒の民衆革命を担ったと同じ民衆の力が、バター
ンでも発揮されて、地域住民が執拗な反対運動を続け、メデ
ィアもこれを報道しました。アキノ大統領の支持者たちが、
原発に反対したのです。アキノ大統領は、原発閉鎖を決断す
る以外にありませんでした。

●バターン原発、「怪物」の臓物(はらわた)はどうなって
いるでしょう?

現在の国立バターン原子力発電は、原発見学者のため、入場
料を取っての「博物館」代りです。

東電福島原発事故以後、テレビで連日原発内部の装置が模型
を使って解説されていたね。模型の内部はすっきりとシンプ
ルに描かれていました。

やまねこたち一行は、原発職員の後について、六階建てビルほ
どの高さの原子炉建屋に入りました。外壁は1m厚さのコンク
リート壁。狭い鉄製の組み立て式階段を四階分上がっては降り
て、格納容器に入ります。

格納容器は原子炉外側の、直径40m、高さ60m、厚さ1m
の鋼鉄製の容器です。足元に横たわる様々なパイプや突起物に
つまづかぬよう注意しながら歩みを進め、薄暗い中にある、燃
料棒(炉心)の容器にあたる圧力容器を外から眺めました。

地下の深いところのプールに漬けられた制御棒、燃料棒(現在
は取り外されている)などの配置を眺めます。周囲の壁には無
数のパイプが細いのから太いのまで張り巡らされていて、何が
何だか分かりません。

地震の震動だけでも、これらのパイプの継ぎ目が外れてしまう
ことは容易に想像できます。

鉄製の網目の階段の足元には、薄暗い奈落の沈んでいるのが
透けて見えます。目が眩みそうになるのでできるだけ下に視
線を向けぬようにして、幾つもの階を上がり降りします。

ようやく蒸し暑い格納容器から出ると、広々した空間に着き
ました。小さな窓から海風が流れ込むみます。

そこには蒸気発生器、タービン、発電機、さらにポンプ、復
水器などの装置が並んでいる。おそらく発電機と思われる直
径2m長さ10mばかりの円柱式の装置が床に横たわってい
ました。

脇腹には「怪物」製造責任者WESTINGHOUSE(ウェスティング
ハウス社)のロゴマークが大きく印されています。

これこそ世界最高価格の原発でした。植民地的政治の遺産と
して、将来にわたって永久に、ここに横たえておきたい怪物
臓物(はらわた)でした。

ドイツの国営テレビ(ZDF)が、バターン原発に待機して、日
本人に取材していました。「フクシマ3.11」に対するドイツ市
民の関心の高さが推測できます。

 
●フィリッピンに対する、3.11の影響は?
2011年3月11日当時、現大統領ベニグノ・アキノは原
発再導入の調査を進めていました。

「福島原発事故の影響は無視できる程度。風向きがフリッピ
ンとは逆の方に向いているから大丈夫」。
これが、事故後のフィリッピン政府公式発表でした。

けれど、市民が黙ってはいませんでした。民衆の力が、この御
用学者発表を転覆させました。非核バターン運動ネットワーク
は、3月14日声明を発表したのです。

「日本で起きた壊滅的な地震は、フィリッピンも原発にとって
安全な場所ではないことを気付かせる絶好の機会です」
地震国フィリッピンの市民は、首都マニラやバターン原発敷地
前での抗議行動を繰り返しました。

さらに、「福島原発の教訓を学び、原子力を放棄せよ」と大統
領に迫りました。このことをメディアが報道しました。結果、
原発再導入に対する疑問が国内にわき起こったのです。

20日後、3月31日ようやく、隠しきれなくなった政府は、
「人体に影響を与えるレベルではない」と留保をつけながらも、
福島原発から放射された放射能がフイリッピンに到達していた
ことを認めました。

けれど原発再開反対に傾いた市民の世論が、政府寄りに傾くこ
とはなかったのです。(「ノーニュークスアジアフォーラム通
信」110号、参照)


●非核フィリッピン連合事務局長、弁護士のコラソン・バルデ
ス・ファブロスさんを囲んで夕食会を開きました。コラソンさ
んは国連で比国原発の不当を訴え、日本の母親大会にも出席し
ている国際的活動家です。

「コラソンさんたちの力の源は何ですか?」
この質問にコラソンさんは、にっこり笑いながら答えました。

「事態が厳しくなればなるほど、私たち、元気になるんですよ!」

スペイン植民地から米国植民地へ、その後日本の侵略、再度米
国植民地、独裁政権と、長い長い植民地とその後の苦難の歴史
の中で、誇りを失わずに生きてきたフィリッピンの女たちの力
の秘密が、この言葉に込められていた。

「政治家が良くないのは国民のせいですよ。皆さん、ジャーナ
リズムを味方につけるといいですよ」。


これらの言葉こそ、「私たちの物語」そのものではないか!

やまねこは、はげしく感動し、夏の季節を思わせるマニラの夜の
宴のテーブルの下で、膝を思いきり打ちたたいたのでした。

フィリッピンについては、今後、継続的に発信することにいたし
ます。とりあえずこの辺で。


うらおもて・やまねこでした。

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