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2012年11月23日金曜日

「十代に何を食べたか?」四杯めおかわり、イベント資料はイラスト入りでバージョンアップ


@@@@やまねこ通信235@@@@

●明日11月24日(土)、午前10時より、茅野市文化セ
ンターにて、第4回、ちの男女共生ネット勉強会「料理の会」
を開きます。会費500円。託児無料です。

資料にステキなイラストが入りました。前回、イラストを入
れることを提案してくださったのは、たけさん。今回、イラ
スト協力をしてくださったのは、ならゆみさんです。
おかげさまで、目が覚めるような紙面になりました。

●「十代に何を食べたか?」の作文を募集しました。ちの男
女共生ネット第4回勉強会「料理の会」に出席される方々だけ
でなく、できるだけ様々な地域と時代にわたる方々に書いて
いただけるといいなあ!

こんなことをネットの仲間に呼びかけ、やまねこ通信で訴え
ました。やまねこたちの20年先輩、塩尻の女性グループ、
こさとさんが、早速、送ってくださいました。

富山県魚津市のはるみさんの寄稿は、やまねこにとり、サプ
ライズでした。あれほどにお忙しい中、昔の思い出を書き綴
てくださったとは!メールを受け取って胸が熱くなりました。

現在茅野市以外の地域では、諏訪市、岡谷市、塩尻市、松本
市、それに富山県魚津市、東京都調布市にお住いの方々が
ります。

筆者のみなさんが十代に暮らした地域は全国に広がります。
茨城県、千葉県、広島市、仙台市、相模原市、富山市、魚津
市、北海道士別市、安曇野市、長野市、下諏訪町、伊那市、
それに中国も。

送られた原稿がどれも、あまりに面白くて、やまねこはこの
一月、それぞれの作文の世界の船につぎつぎ乗り込んで寄稿
者の皆さんと共に航海している気分でした。

それでは、4杯目の「おかわり」をお送りします。

母の料理、父の料理(茅野市、30代前半、みどりさん
両親が共働きだった私の家では、母が「早いだけがとりえ
!」といって出す取り立てて名前もないような普通で健康
的な食べ物が多かったように思う。天ぷら、煮物、焼き魚、
千切りキャベツの上に細切れ肉を炒めたものをドンと乗っ
けたものなど。母の作る食べ物で印象に残っているのは、
とにかくあっという間に出来上がるということだ。仕事を
終えた足でスーパーで買い物をし、休む間もなく台所に向
かって夕食の準備をして、「ごはんだよ!」という手際の
よさにはいつも見とれるものがあった。もちろん味も悪く
はなかったし、すばらしいと思うのは、家には冷凍食品や
レトルトものの買い置きが全くなかったということだ。忙
しいからといって手を抜くことはなく、かといって凝りす
ぎもせず、子どもたちに栄養のあるものを食べさせてきて
くれたことに感謝します。
一方、たまに夜勤があった母に代わって私たち姉妹に食事
を提供してくれた父であるが、この人は掃除や洗濯は得意
なのだが、料理は60才を過ぎてもいまだ自立できていな
い。私たちが小学生だったある朝のこと、パンのおかずに
と目玉焼きを作ってくれた。作ってくれたのはいいのだが、
食べようと思ったらなんと黄身は固まっているのだが白身
は生のままであった。得意とするのは、ちくわの蒲焼。わ
ざとか失敗してか、いつも黒こげ。でも、姉と私は焦げた
ところがおいしいね、といって食べていたような気がする。
先日、私が体調不良で寝込んでいたら、5才の娘が「おか
ーさん、おとーさんがおひるごはんつくってくれたよ」と
報告に来た。何を作ったのか聞くと、ソーセージを焼いた
のだという。私の父と私の夫と料理の腕はいい勝負だ。次
に生れてくるのは男の子であっても女の子であっても、私
はせめて普通のものでいいから料理のできる子に育てたい
なあと思う。栄養バランスのとれたものを食べることは体
にとっても大事だし、自分で作れれば、安くて口に合うも
のが食べられる。


十代に何を食べたか             
(長野県下諏訪町、さちほさん、60代前半、茅野市在住)
 諏訪湖の近くで生まれ育った私、食べ物として鯉・わかさ
ぎ・ふな・えび等を煮付け、空揚げなどにして諏訪湖の恩恵
をたくさん受けた。この他に、つぶ・バカ貝と呼ばれた大き
な貝(私が小さかった頃、諏訪湖は遠浅で岸辺の砂浜を足で探
ると大きな黒い貝が沢山獲れた)。諏訪湖に注ぐ川では、うな
ぎ・ドジョウも獲れたし、沼地では牛カエルも、牛カエルは父
がかまどの火で焼いて食べさせてくれ、うさぎのような淡白な
味だったような気がする。
 牛カエルはゲテモノにあたるかもしれないが、はちのこ・い
なご・さなぎ・ざざむし、今では信州の四大珍味と言われてい
るうちのざざむしは天竜川で獲れるため諏訪ではなじみがない
が、はちのこ・さなぎ・いなごは煮付けて、栄養があるからと
言われ食べた。はちのこはご飯に炊きこんだ「すがりめし」が
おいしかった。
祭りや行事の時の思い出のある食べ物は、
下社秋宮の二年詣りに行き買ってもらったかや飴・豆板。お雛
祭りに祖母がほうろくでお米を煎って作ってくれたおこんめり。
祖母の姉が粟沢観音の近くに住んでいたので粟沢観音のお祭り
に呼ばれて行くと、近所のおばあさんが作ってくれたおまんじ
ゅう。上諏訪の母の里でお宮の夏祭りに作り持ってきてくれた
お餅(餅を赤紫蘇の葉で包んであった)。小学校の文化祭で食べ
たお汁粉、お汁粉には白菜の浅漬けがついた(お汁粉券を事前
に購入するが家族が仕事で忙しく行けない時には鍋を持って行
き家にもらって帰り家族みんなで食べた。)暮れの三十日には
家族総出で餅つきをした、のしもちだけでなく、豆餅・海苔餅
も搗いた。
 農家だったので家の周りや畑にはいろんな果物の木があった。
さくらんぼ、あんず、ぶどう、柿(甘柿・渋柿両方ともあった、
諏訪は寒いから甘柿はできないと言われているが、いまでも毎
年成ってくれている)渋柿は干柿やお炬燵に入れて作ったさわし
柿、熟し柿を凍らせてシャーベット状にしても食べた。
 夏は近所の家から桃を沢山いただき、生でも食べたが缶詰の
ようにシロップ煮にして。
夏の思い出のあるものとしては、やはり近所の牛を飼っている
家からいただいた牛乳で母が作ってくれたカルピス風な飲み物
(牛乳を沸し、クエン酸と砂糖を入れたもの)。
 売りに来た物で特に懐かしいものは、ロバのパンとオリエン
タルカレーの移動販売車。
両方とも音楽を流してやってきた、音楽につられてたくさんの
人が集まっていた記憶がある。
 思い出を辿ってゆくと、きりがなく次々と思いだしてしまう、
のでこの辺でお仕舞にします。


10代に何を食べたか・・・          
 (宮城県仙台市、みえこさん、50代後半、茅野市在住)
10代に何を食べたか?と問われ、私の頭にすぐ浮かんだのは、
あのまずい「学校給食」の事だ。6年間毎朝、学校に行くのが
イヤでイヤでしょうがなかった、その最大の理由が学校給食だ
った。これを牛乳と呼ぶの?という代物の脱脂粉乳。パサパサ
したコッペパンと食パン。のびきったゴムのような麺類。毛の
生えている肉。古い油臭いマーガリン。ただ甘いだけのジャム
・・・今考えてもゾオーとする!!あれを「食べ物」とは私に
はどうしても思えなかった。「どうしても食べられない」とい
って残そうとすると、「給食を残すことは悪いことだ」と先生
に叱られ・・・私にとって給食の時間は、まるで拷問のようだ
った。
だから家で母が作ってくれる野菜や魚中心の素朴な食事は何で
も、とてもおいしく思えた。そして何か行事やお祝い事がある
と、決まって作ってくれた「おいなりさん」と「太巻寿司」、
そして手作りのカスタードクリームにフルーツをたくさんいれ
た「フルーツサラダ」が私のお気に入り。
そして時々連れて行ってもらったデパートの大食堂で食べた、
緑あざやかな「クリームソーダ」「ホットケーキ」「マカロニ
グラタン」が、あの当時、ああーおいしいと思ったものです。


10代に何を食べたか
(神奈川県相模原市、ひさえさん、60代後半、茅野市在住)
悲惨な戦争が終り、育ち盛りだった私たち3人きょうだい(女
2、男1)は、ひもじかったという思い出はあまり持たずに育
ちました。たいした食べ物なんかなかったはずです。サラリー
マンだった父は、自宅の庭で少しばかりの野菜を育て、母は1
ロ先の商店へ毎日のように歩いて買い物に行っていました。
(車も冷蔵庫もなかった時代でした)。
今思えば、親は苦労していたはずなのに、私たちは食べ物につ
いて無知でした。世の中に与えられたもの以外に、もっとおい
しいものがあるなんて、知らずに育った子ども時代でした。そ
んな粗食のおかげで、みな元気にとび回っていました。その頃
は、農薬も化学肥料も添加物もなく、食べ物は全く安全なもの
ばかりだったのです。もちろん放射線も。それがいつの間にか、
店先に並ぶ食べ物が疑わしいものばかりとなり、安全な食べ物
を見つけ出すのに、大変な苦労をしなければ手に入らなくなり、
さらに遺伝子組換の表示がTPPに参加することによって、表
示すると違反となり、罰を受けるらしいということです。
人の命をつないでゆく安全な食べ物は、どこへ行こうとしてい
るのでしょうか?


伊那の四季
(伊那市、ようこさん、30代、母上60代、茅野市在住)               
春:フキノトウ、山菜胡麻和え、天ぷら
夏:あんずの漬物、梅酒、しそジュース、桑の実、セロリの粕漬
秋:いなごの佃煮、くるみ、焼き芋、きのこ、栗、あけび、むか
ごのご飯
冬:母:長薯ごはん、わかさぎの天ぷら、甘露煮、かぼちゃとあ
んこの煮物、リンゴとさつま芋の煮物、
       大根や白菜の漬物、野沢菜、甘酒(麹)
  娘:アップルパイ、豚汁、手打ちのうどん
四季を問わず:母上:塩丸いかの酢の物、絹の花(お蚕の幼虫)
蜂の子、寒天(フルーツ、人参、牛乳、黒糖、あんこ、くるみ寄
せ、赤色など)、自家製の卵
       娘:チーズケーキ、五平餅、甘酒(酒粕)、そば、
おやき
お正月:鯉の甘露煮、お雑煮(醤油味、みつば、鶏、四角餅、人
参、大根、葱)
参考図書:『カイコの絵本』きうちまこと編、1999年、農文協
サナギの佃煮(絹の花)信州地方などでは、カイコのサ
ナギが伝統的な食べ物として食べられてきたんだよ。魚や
肉の少ない地方では貴重なタンパク源だったんだね。
レシピ:サナギ:(生のサナギは味がしみにくいので、乾燥させ
たものをつかう。)量は好きなだけ。
醤油:ぜんたいにからまる程度。 油少々
1油を薄くしいたフライパンで、サナギをから煎りする。
2そこに砂糖を入れ、さらに醤油を入れて、煎り付ける。

*母上と協力して作成してくださってありがとうございます。伊
那地方の四季折々の食事が本当に良くわかります。カイコ、蜂の
子、正月には鯉の甘露煮。地域色を反映した掛けがえないないメ
ニューですね。


イカ入りチャーハンとカレー          
(富山市・60代後半、きょうこさん、茅野市在住) 
富山市旧市街の東端、富山駅から1キロ離れた土地に4歳のころ疎
開先から転居した。商店の立ち並ぶ旧北陸道の稲荷町通りから徒
3分。米の配給が不足し、その代わりに砂糖が配給になったこ
ともある食糧難の時代だった。
ある日、お昼時に外から戻って、飯台の横にあるお櫃の蓋を開け
た。腹ペコだった。
「お昼、なにけ?あれえー、また芋なが?!」私は失望の大声を
あげた。すると母の叱声が飛んだ。
「芋でもなんでも、食べられるもんがありゃ、有り難く思われ!
!」
よほど、虫の居所が悪かったのか、母の迫力は凄まじかった。勢
いに押され、私は口をつぐみ、沈黙のまま味のしない芋を口に押
し込んだ。食べ物に好き嫌いはほとんどないが、これ以後、出さ
れる食事に不満を言ったことは一度もない。小学校入学前のこと
である。
小学校下級生の頃、稲荷町の大きな魚屋さんが大型自転車に魚箱
を幾段も積んで売りに来た。富山湾のどの漁港の水揚げかを大声
で唱える。大漁の日は声が高い。夕食を並べる母も同じ言葉を繰
り返し、大漁の浜のざわめきを伝えた。この頃私は、台所の流し
の横に立って、魚をおろす母の手元を毎日眺めた。小学校上級に
なる頃、私たちは、魚よりも肉料理が高級と思うようになってい
た。
「中国人は油一滴も無駄にしない」。母は口癖のように語り、天
ぷらの残り油でチャーハンを作った。チャーハンはネギや人参に
イカが入っていた。イカ入りカレーも母の発明だった。肉ではな
くイカの入ったチャーハンやカレーは、代用品のイメージが美味
さの満喫を妨げ、子どもたちにとって、「一家の秘密」だった。
けれど後年、イタリア料理にイカピラフなどがあることを知り、
肉が高級だった頃の母の知恵に密かに敬服したものだ。やがて魚
肉ソーセージが売り出された。ピンク色で胡椒と肉の香りを添加
したソーセージを5センチの斜め切りにしフライにしてソースで
食べた。新鮮な魚の料理よりもよほど美味しかった。味の好みは、
時代と年齢で大いに変化するものだなとつくづく思う。


ハンバーガー・食の年表紀元ゼロ年  
(神奈川県相模原市・たかこさん、50代後半、茅野市在住)
ハンバーガーが世にあったかなかったか、それが私の食の年表
の紀元ゼロ年だ。1971年、銀座にマクドナルド1号店がで
きた。翌年、大学1年生の私は、新宿を経由する通学途上でマ
ックやロッテリアで立ち食いをした。
十代以前と十代の最中は、ほぼ「紀元前」で、肉を渇望する時
代だった。日常の肉っけといえばメンチカツぐらいのもの。福
島浜通りの出身だが生魚を好まない母が作る料理は、焼き魚が
メインだった。郷土料理があるのかないのか、特に味わった記
憶もないので知らない。私の大学時代に母は料理教室に通いだ
し、やがて西洋・中華の料理の腕を急速に上げてしまった。こ
うしてますます伝統的和食郷土の味からは遠のいた。
18歳になるまで、肉料理は稀であった食卓の定番は、焼き魚。
秋刀魚・シャケ・アジ・ニシン・サバなどが入れかわり立ちか
わり並ぶ。小骨を喉に刺して泣く不器用な子供だった私は、少
し大きくなっても焼き魚恐怖症で、恐るおそる箸をつける有様
で、食べること自体を楽しめなかった。
食べやすい豚カツやすき焼きは、むかしは家庭ではたまにしか
出なかった。そういう時代、安価な立ち食いハンバーガーは1
8歳の私の楽しみになった。外国航路の船に勤務する叔父の家
で、中学生の頃に食べたデミグラソースのハンバーグステーキ
の味と重なり、ああ、これだと思った。その後は母に頼み、さ
まざまな肉料理が並ぶ「紀元後」になっている。 


中国青島・留学生Rさん  10代に何を食べたか?        
                                   (20代、大学生)
10代のときよく食べた料理はトマトと卵の炒め物です。トマ
トの酸っぱさで食欲がアップし、ふわふわの卵を加えてとても
食べやすくおいしい一品です。では簡単な作り方を紹介しまし
ょう。
 先ず、トマトを皮むきして、8等分に切ります。そして卵2
を茶碗にいれ、塩少々でかき混ぜます。最後ニンニク一片を細か
く切ります。
 準備が出来たら、まず卵を軽く炒めてお皿にとっておきます。
そして、油を軽く引いて、ニンニクを入れます。ニンニクが柔ら
かくなったら、トマトを入れて炒めます。トマトは生でも食べら
れるので、中火で2分ぐらい炒めたら塩と砂糖で味付けます。最後
に炒めた卵を入れて、軽く炒めて出来上がります。温かいご飯と
一緒に食べるのがお勧めです。
私が10代のとき親は仕事で忙しく、トマト好きの自分にとって、
手間をかけずに、簡単に出来るおいしい一品でした。


料理の賢女ふさこさん、つねこさんの対談  
昭和30年代の米沢の食べ物   (60代前半、茅野市在住)
私達は茅野市米沢で生まれ、小学校から11年来の同級生。
私達が子どもの頃はどこの家も自給自足で米や野菜には不自由し
なかったが、蛋白源となる食べ物はどうだったのかと、2人で思い
出してみた。

大豆、ササゲなど各種の豆類は自家製でいつも食卓に煮豆があっ
た。川魚、蜂の子の炒った物、赤ガエルの足を焼いたもの、イナ
ゴのつくだ煮、ドジョウの柳川風、ヤマカジカを乾燥させて焼い
たもの、シマヘビやスズメの焼いたもの、螺の味噌汁など山や川
でとった物を何でも? 食べた。(共通するもの、しないもの、
余所の家では食べていたけれど私の家では食べなかったものなど、
話がはずむ)。  

ふさこ「卵、鶏肉やウサギの肉なんかは、何かの時のご馳走で、
一羽つぶすと、肉だけでなく、軟骨を根気よく叩いて団子にし、
汁に入れたりと余すところなく利用した」
つねこ「鶏団子は家でもお爺さんが大きな石の上で骨をたたいて
作っていた。おいしいけどちょっとざらざらするんだよね」
つねこ「塩沢の豆腐屋さんが週に一度位豆腐や揚げを売りに来た」
ふさこ「たまに納豆売りが、なっとなっとー! と声を張り上げ
て売りに来た。買いに行くと経木に包んだ納豆に、辛子かアオノ
リ、好きな方をそえてくれた」

まだ冷蔵庫がなかった。時々行商の人が持ってくる竹輪、クジラ
の肉、サメの塩漬け、塩イカなどがすごく美味しかった。

ふさこ「エゴマ、枝豆、ゴマ、クルミなんかを使っておはぎや白
和えなんかもよく作ったね」 
つねこ「私の家は周囲に一族が住んでいたから、ちょっとご馳走
らしいものを作るとすぐどんぶりやお重に入れて配り歩いたよ。
それは子供の仕事だった」

こうやって思い出してみると現在のように贅沢な食事はしていな
くても、結構ヘルシーな食べ物で、蛋白質の摂取もできていたよ
うに思われる。(以上)


●最後に、こうしたイベントにどんな意味があるのでしょう? 
明日のイラスト入り資料をそっと、開くと、「はじめに」の下に、
次のように、書いてあります。

●本日は、地域の伝統料理を共につくり、共に頬張りながら、
「十代に何を食べたか」を大いに語り合うイベントです。

海は遠くても、湖、川、山の幸が豊かな茅野、諏訪地方で、女た
ちが工夫をこらし日々いのちをつないできました。今日は地域の
お祭りで作られたメニューを、「料理の賢女」に教わりながら、
一緒に作りましょう。

私たちの中には戦中戦後の食糧難のため、満足に3食が得られな
かった時代の体験者が含まれています。「貧しい時代」、女たち、
母たちはあらゆる家事を手でこなしました。

一方で家族は共に食事することが一般的だったように語られてい
ます。けれどこの時代は、戦死戦災死戦傷抑留のため、痛みを抱
えた家族が多かったことを忘れるわけにはゆきません。

経済の高度成長期は、電気製品の普及の度合いで語られる「豊か
な時代」と呼ばれています。ところがその後の今日の食生活は、
カップヌードルに代表される「粗食」と「個食」の時代です。

こんな中で、「貧しい時代」のちゃぶ台を囲んだ一家の食卓は、
ノスタルジー(郷愁)の対象になりがちです。

けれど、かつての食事の共同性を支えた女たち、母たちの無償の
労働を、私たちは手放しで懐かしむことはできません。

産業革命以前や近代初期の肉体労働の時代を、いったい誰が懐か
しむでしょう。農業を代表とする重労働は男性ばかりが担ったの
ではありません。

出産育児家事をこなす一方で、女性は男性と肩を並べて労働しま
した。重労働を共にしながら、女たちは妊娠出産とともに、家事
育児介護を引き受けることが当然とみなされました。この時代に
「母が育児に専念」する家庭は、例外的存在でした。

ところが、ひとは誰しも母から生まれ、「子ども時代」に郷愁を
抱く「こころの仕組」をもっています。このことが、ある意味で、
女性の子育て家事労働の本質を、見えにくいものにしています。

つい最近まで、女たちは家の中の仕事も、外の仕事も、すべて無
報酬無記名のシャドウワークの中にいました。このことが女たち
の家庭と社会での立場を低くし、時に内面の力までも奪ったので
す。

伝統料理を作った女たちが何を思っていたのか、私たちは知りま
せん。けれど、彼女たちの生きた社会は、このような社会でした。

今日は料理の日です。料理をつくることは本来、楽しい作業です。
とりわけ、仲間と共に作る料理は祝祭的です。今日は、茅野の伝
統料理を、「一日家元」である「料理の賢女」指導のもと、存分
に楽しみ、存分に、味わってくださいますようにお願いいたしま
す。



うらおもて・やまねこでした。


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