ページビューの合計

2012年9月24日月曜日

眼の手術と「他人の顔」


@@@@やまねこ通信221@@@@

今朝の気温は17.5℃。秋を楽しむいとまもものかは、これから
寒さの国に向う。暑さ寒さも彼岸まで、と言われる通り、昨日は
暑さの国から「彼岸」へと渡った日だったのか、歴然と季節の階
段を降りた思いがした。

夜には、ユニクロのヒートテックロングの下着上下を着用した上、
セーターをかぶってようやく落ち着いた。暖房はまだ使わない。
主なる暖房は灯油を燃やす床暖房。床下の不凍液を循環させ
るための電源が必要である。今年は電源を必要としない石油ス
トーブを一個購入しようかと、ネット検索をしている。

ところで、やまねこは先週、右目を手術した。白内障の治療と同
時に強度の近視を改善することが目的であった。手術は正味15
分ほど。痛みはほとんどなかった。

手術後の検眼をすると、0.02だった右目の視力が、0.5に回
復していた。左目は元のまま0.07である。

手術後、これまで使っていた2種類のメガネが使えなくなり、車の
運転が出来ない交通弱者になった。18日の手術の日、翌日翌々
日の診察のため、車での送迎をせいたかさんにしてもらった。ち
づこさんにもお願いしていた。今日はようやく、臨時のメガネが出
来たので、明日からの運転が可能になった。ご心配くださったみ
なさん、有難うございました。

やまねこは20歳過ぎてから近視がひどくなりメガネを使うようにな
った。コンタクトレンズを試したこともあったけれど、眼の中に異物
を入れることに慣れることができず、放棄した。

近視はどんどん強くなり、50代後半から、二重焦点メガネを使うよ
うにした。遠距離を見るメガネでは手元を見ることが出来ぬ不便を
改善するはずであった。けれど、バイフォーカルは、階段を降りる時
が不便である。焦点がぶれるので、踏み外しそうになるのである。

近視が強いため、裸眼で物を見る時は、これまで5センチの距離
に対象物を近づける必要があった。鏡に自分の顔をうつすときは、
鏡から5センチに接近せねばならなかった。

5センチの距離では、顔の全容は見ることが出来ない。だからや
まねこは、自分の顔を裸眼でみることが、この数十年来なかった
のである。

手術の翌日、眼帯を外すと、0.5に回復した右目は、鏡に映った
顔を見た。いったい誰だろう?そこに見えたのは「他人の顔」に他
ならなかった。

安倍公房『他人の顔』は、工場の点検中、手違いから爆発事故に
遭い、大火傷を負って自分の顔を失った男の物語である。包帯で
頭と顔を包んだ男性は、顔を失うと同時に、会社の同僚や家族と
のかかわりも失われたと思う。やがて精神科医に相談し、仮面を
作ることにする。包帯の男と仮面の男の二重生活が始まり、「自
分は誰でもない純粋な他人だ」と、「自由」の錯覚を得
ストーリーである。勅使河原宏監督の映画にもなった。

やまねこは、数十年後に裸眼で出会った自分の顔という「他人の
顔」を、これから引き受けてゆくことになった。やまねこの場合、「他
人の顔」と思うのは自分だけであって、周囲の他者の眼には、いつ
も通りのやまねこの顔と見えているのである。

手術からこれで5日目。「他人の顔」もそろそろ見慣れ、違和感が
薄れて、「自分の顔」としての親しみが増した。『他人の顔』の主
公のような、「他人になる自由」は存在せず、むしろ、これまで見え
ないでいた「自分の顔」に直面し、それを引き受ける時間と過程を
必要としたということであるのかもしれない。

「他人になる自由」といえば、メガネこそはむしろ、仮面の役割を果
たしてくれていた。裸眼を、やまねこは回避して、仮面をつけること
で、「私からの逃走」を20歳のころに試みたのではなかっただろう
か?「私」からの「私の逃走」であり、「他者」からの「私の逃走」の
両方として。

「メガネを掛けた女」という「他人」になることで、「自分」という不確
かなものを他者の眼に晒す、自意識の恐怖、地獄から逃れたので
はなかっただろうか。

もしもそうであるなら、やまねこは自意識の地獄を今では乗り越え
たのだろうか?もしもそうであれば、いつ、どうやって?

一つの切っ掛けは、社会的役割を獲得すること、すなわち職業に
着くことであっただろう。このことで、少なくとも勤務中は、「実存の
自由」を失い、社会的役割に固定されるのだから。

「何ものでもない存在」の自由から、名刺に記入する役割を張り付
けられた社会的存在となった瞬間、おそらく「自意識の地獄」から
抜け出したのだ。

けれどそこから、社会的「自由時間」を獲得するための闘争が、皮
肉にも開始されるのである。

それにしても、人は誰しも、他人の顔は見えるけれど、自分の顔を
見るためには、鏡を介して見るしかない。人が「自分の顔」とみなす
鏡像は、反転した像である。だから写真に写った自分の姿には、違
和感がつきまとう。写真に写った姿は「別の自分」であるとやまねこ
は考える。

自分の姿を見る際に、反転した鏡像でしか見られないというアイロニ
カルな状況は、「神」のどのような試練なのか、それとも愛なのかと、
兼ねてから考えていた。

裸眼で自分の顔を数十年ぶりにを見たやまねこの今回の経験は、
眼を透明な媒介物として、外界、すなわち社会を眺める外向的フェー
ズから、「他人の顔」をした自分のこれまでの来歴に対して内向的な
関心を向けるフェーズへの変化と、どうも重なり合っているような気が
する。

この二つのあるいはもっと多数のフェーズに入ったり出たりして、やま
ねこはこれまでを生きてきたのであります。


うらおもて・やまねこでした。


0 件のコメント:

コメントを投稿