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2012年9月6日木曜日

いのちを守る 特別授業、自分の命に責任をもつ教育を実践した釜石小学校児童たち


@@@@やまねこ通信220@@@@

 91日(土)防災の日、8時以後のNHK防災番組をぜんぶ見
た。岩手県釜石小学校児童たちが、自力で津波から身を守って
生き延びた体験談が感動的で興味深かった。

子どもたちは大人を当てにすることなく、逃げる様子のない大人
の姿勢に安心することなく、のんびり構える親たち祖父母たちを
説得して高台に逃げ、自分の命、家族、友人の命を助けた。

これは偶然の出来事ではなかった。釜石市防災アドバイザー
馬大学教授の片田敏孝先生の指導の結果だった。
すごい判断力、想像力、知性を示した小学生の一人が語った。

「<奇跡>というより、<実績>と呼んでほしい」。

●次は、NHK、HPの番組紹介です。
東日本大震災後、各地で「防災」への意識が高まる中、あの震
災の“貴重な体験”として語り継がれている子どもたちがいる。
184人の児童全員が自力で巨大津波を生き延びた、岩手県の
釜石小学校。

大人顔負けの「判断力」や「想像力」で危機を乗り切った子ども
たちの体験は、防災の視点だけでなく「危機対応」のモデルケ
ースとして国内外で注目を集め、“釜石の奇跡”とも呼ばれてい
る。今回その“奇跡”をアニメーションと実写で詳細に再現。子ど
もたちの驚くべき避難行動を親しみやすい、演出で伝える。また、
釜石市の防災アドバイザーを務める群馬大学の片田敏孝教授を
スタジオに迎え、親世代・子ども世代のタレントが「教室風」のス
タジオで“奇跡”に学びながら「防災」を考えていく。(以上引用)。

●片田敏孝先生の「命を守る教育」には前段階があった。先生は
津波被害から逃れるための実践的手段を、三陸地方の市民に伝
える必要を感じていた。

行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、
人間の意識が減退するという矛盾があった。反復される警告に対
して、人々が反応しなくなる「狼少年」の物語と同じである。

そこで三陸地方の自治体に、防災教育に取り組むことを打診した。
釜石市が手を挙げた。04年であった。

関心の高い市民ばかりでなく、無関心な人々に訴えるため、学校
教育を糸口にしようと考えた。学校の先生への教育が必要だった。

三陸地方には100年程度の周期で津波が定期的に来襲する。
今のままでは次に襲来する津波から逃れられないことを伝えた。
子どもたちに対する授業が始まった。

子どもたちは始めは、津波が襲来すると聞いたら、「お母さんに電
話する」「親が帰って来るまで家で待つ」と答えていた。

片田先生が過去の津波で犠牲になった4041人という数字、そして
亡くなった方を遠目に写した白黒の写真など具体的な資料を見せ、
地震発生から逃げる時間が早ければ早いほど死者が減少するとい
うシミュレーション動画を見せるなど視覚的に訴えた。

実際に避難する際の注意点、特にその時にできる最善を尽くせと
伝えた。
地図に自宅と通学路を書き入れ、避難場所に印をつけて、自分だ
けの津波避難場所マップを作成すること。
「ハザードマップを信じるな」ということ伝えた。

なによりも、自分の命に責任を持つことを教えた。三陸地方には、
「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。
片田先生は言った。「自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」。

「最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それ
は教育によって高めることができる」。

●やまねこは、この番組を見て思った。
ここで語られたのは、「命が大切」というような、一般論ではない。

自分たちの暮す地域では、生き延びるために、このことが絶対に
必要、と、これほどに徹底した「自分の命を守る教育」が、この国
でなされたことが果たしてあっただろうか?その必要が認識され
たことがあっただろうか?

自分たちの暮す地域のそれぞれの課題に向き合って、この国の
すべての子どもたちが、徹底した「自分の命を守る教育」を受け
たら、子どもたちの意識と行動にどんな変化が起こるだろう?
近い将来、社会がどのように変わるだろう?

沖縄、その他の基地周辺で。
すべての原発周辺地域で。

●以下に引用するのは、群馬大学の片田敏孝先生のネット記
事です。テレビで伝えられた幾つものケースが、ここに詳しく語
られています。かなりの長さですが、丸ごと引用します。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312

●死者の声に耳を傾ける
最初にある少女のことを書かせていただきたい。私は、岩手県
釜石市の小中学校で先生方とともに防災教育に携わって8年に
なる。「どんな津波が襲ってきてもできることがある。それは逃げ
ることだ」と教えてきた。特に中学生には「君たちは守られる側で
はなく、守る側だ。自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連
れて逃げるんだ」と話していた。今回の震災では、多くの中学生
が教えを実践してくれた。

ある少女とは、私が教えた中学生の一人だ。彼女は、自宅で地
震に遭遇した。地震の第一波をやり過ごした後、急いで自宅の裏
に住む高齢者の家に向かった。そのおばあさんを連れて逃げるこ
とは、自分の役割だと考えてくれたからだ。逃げる準備をするおば
あさんを待っているとき、地震の第二波が襲ってきた。彼女は、箪
笥の下敷きになり命を落とした。

病気で学校を休んでいた子やこの少女を含めて、釜石市では残
念ながら5人の小中学生が亡くなった。それでも、命を落とした少
女を含めて、一人ひとりが「逃げる」ことを実践してくれたおかげで、
小学生1927人、中学生999人の命が助かり、生存率は99.8%だっ
た。もちろん、死者が出た時点で、私たちがやってきた防災教育は
成功したと胸を張ることはできない。だから、私は彼女ら死者の声
に耳を傾け続ける。防災学は、人の命を救う実学だからだ。彼女ら
の声を聞くことで、別の命を救うことができる。

●小学生の手を引き逃げた中学生
釜石市の鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が
起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自
主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指
定されていた「ございしょの里」まで移動した。日頃から一緒に避難
する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後
に続いた。

ところが、避難場所の裏手は崖が崩れそうになっていたため、男子
生徒がさらに高台へ移ることを提案し、避難した。来た道を振り向く
と、津波によって空には、もうもうと土煙が立っていた。その間、幼稚
園から逃げてきた幼児たちと遭遇し、ある者は小学生の手を引き、あ
る者は幼児が乗るベビーカーを押して走った。間もなく、ございしょの
里は波にさらわれた。間一髪で高台にたどり着いて事なきを得た。

 釜石市街の港近くにある釜石小学校では学期末の短縮授業だった
ため、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいた。だが、ここ
でも児童全員が津波から生き残ることができた。

ある小学1年生の男児は、地震発生時に自宅に1人でいたが、学校で
教えられていた通り、避難所まで自力で避難した。また、小学6年生の
男児は、2年生の弟と2人で自宅にいた。「逃げようよ」という弟をなだめ、
自宅の3階まで上り難を逃れた。授業で見たVTRを思い出したからだ。
既に自宅周辺は数十センチの水量で、大人でも歩行が困難になってお
り、自分たちではとても無理だと判断した。彼らは、自分たちの身を自ら
守ったのである。

   日本一津波に強い町で起きた想定外
三陸地方の町には、津波に対する人々の恐れが形となっていた。江
時代の記録にも津波の襲来は何度も現れる。近代以降では、明治29
1896)年、釜石沖を震源として東北太平洋沿岸を襲った明治三陸大津
波では死者約22000人に上った。同じく釜石沖を震源とした昭和819
33)年の昭和三陸大津波でも多くの死者を出し、昭和351960)年には
チリ地震津波に襲われた。

それでも、自衛策をとりながら人々は三陸に住み続けた。例えば釜石市
では、昭和531978)年から湾口の防波堤建設に着手し、30年かけて平
202008)年に、海底63メートル、水面上6メートル、幅が北に990メート
ルと南に670メートルの防波堤を完成させた。

宮古市田老町にも、高さ10メートルもある日本一の防潮堤が造られた。昭
8年の大津波の直後から建設が始められたもので、昭和531978)年に
総延長2433メートルで工事は完成し、「万里の長城」と呼ばれるようになっ
た。

だが、今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップ
では津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭っ
た。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄
だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とは
いえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの
深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。

だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民
がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これ
が、私のやってきた防災教育だ。

●親や先生をいかに巻き込むか
 2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見れ
ばこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさ
を感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実して
くるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。

 住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津
波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときに
は、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それで
も、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。

私は、三陸地方の自治体に、共に防災教育に取り組むことを打診した。釜
石市が手を挙げてくれた。04年のことだ。三陸地方には100年程度の周期
で津波が定期的に来襲する。これは海溝型と呼ばれるプレートのためだ。

過去の明治三陸大津波では、釜石町(当時)の人口6529人のうち、4041
人が犠牲となっており、同じような事態はいつでも起きうるのだが、ここ最
近は津波警報が発令されても市民の避難は低調で、釜石市は危機感を
強めていた。そんな矢先に私の申し入れを快く受け入れてくれたのだ。

まずは社会人教育を行おうと、講演会を何度か開催した。だが、来場する
のは防災意識の高い、ごく一部の市民ばかりで、広がりに欠けた。その
他大勢の無関心層に訴えるため、私は学校教育を糸口にできないかと考
えた。

防災教育を毎年受けた小中学生は、いつか成人となり、家庭を持ち、結果
的に社会全体の底上げにつながる。子どもを通じて、親や地域社会に教育
の成果が広がることも期待できる。

早速、私は市内のとある小学校を訪ね、管理職クラスの先生に防災教育の
実施を提案したが、反応は冷ややかだった。英語授業や総合学習への対
応に忙殺されて余裕がない、というのが理由だった。また、津波とは関係の
ない内陸部出身の先生が多かったこともあり、危機感が薄かった。

 そこで当時の釜石市教育長に直接相談した。教育長は地元の出身であ
り、昭和三陸大津波の被害を実際に経験していたことから、防災教育の必
要性を理解してくれた。そして、学校の先生への教育が必要だという結論
に至り、平日の午後、全校を休校扱いにして、空いた時間帯に教諭向けの
防災講演会を実施する機会を与えてくれた。

 先生方に私が訴えたことは、防災意識が不十分な今の釜石に育つ子ど
もたちは、今のままでは次に襲来する津波から逃れられないということだ。
そして、その津波は彼等の一生のうちにほぼ必ず襲来するという事実であ
る。

自分の命を守ることが何にも増して重要なことと感じ取ってくれた多くの教
員が、私の呼びかけに応じてくれ、先生方との連携で防災教育のテキスト
開発と授業研究が各校で始まった。

●「家で親を待つ」と答えた子どもたち
 こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子ども
へのアンケートだ。
 「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか
?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来
るまで家で待つ」というものだった。

 私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起き
た時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添
付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。

大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。
親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。
だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。

この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練
の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、
釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(45日現在)と、釜石
市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の
意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波
及効果もあったのではないか。

●数学の時間にも津波教育を盛り込む
授業では、津波に対するリアリティーを持ってもらうことを最初の目的にした。
祖父母から津波の話を聞いているが、自分の身に降りかかる出来事とは思っ
ていなかったからだ。

まずは、過去の津波で犠牲になった4041人という数字、そして亡くなった方
を遠目に写した白黒の写真など具体的な資料を見せた。

さらに、地震発生から逃げる時間が早ければ早いほど死者が減少するとい
うシミュレーション動画を見せるなど視覚的に訴えた。

こういった工夫を重ねることで、それまで他人事と思っていた子どもたちの
目つきが変わり、授業の中身に真剣に耳を傾けるようになった。

子どもたちには、津波の恐ろしさや特徴だけでなく、実際に避難する際の注
意点を教えた。特に重点をおいたのは、その時にできる最善を尽くせという
ことだ。津波は毎回その形を変えて襲ってくる。地震の直後において、どん
な津波なのかはわからない。ハザードマップに示された津波より大きいかも
しれないし、小さいかもしれない。しかし、どんな津波であっても気にする必
要はなく、できることは、その時にでき得る最善の避難をすれば良いというこ
とだ。

こうして彼等なりの最善策を探る取り組みが始まった。
具体的には、地図に自宅と通学路を書き入れ、避難場所に印をつけて、自
分だけの津波避難場所マップを作成させた。マップには、地震が起きたらす
ぐに行動すること、とにかく高いところへ行くこと、津波は川をかけ上がって内
陸部の低い場所にも到達するので海から遠いといって安心しないこと、一度
高いところに避難したら降りてこないことなどを記した。

これらは時間外の取り組みだが、より効果を高めるために、学習指導要領
に定められたカリキュラムの中で津波防災教育を盛り込めないかと考えた。

教員をサポートするために、全学年、全教科と関連づけた『津波防災教育の
ための手引き』を先生方とまとめ、授業に使えるようにした。例えば算数や数
学の時間に、物の長さを測る授業で津波の高さを実感させたり、津波が自分
の家に到達する時間を計算させたりした。これは、新たに防災授業の立案を
する手間を省く狙いもあった。

また、地域住民の関心を高めるために、下校時を想定した避難訓練を行い、
屋外スピーカーで緊急地震速報を放送して、地域住民に避難する子どもたち
を誘導してもらった。

ハザードマップを信じるな
 知識と実践を組み合わせたのは、災害文化の醸成が目的だったからだ。
どれだけ知識を植えつけても、時間がたてば人間はその記憶を失ってしまう。
いざというときに無意識に行動できるようになるには、実践によって知識を定着
させることが必要だ。釜石市の小中学校では年間5時間から十数時間を、津波
防災教育に費やした。

防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザード
マップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映
させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリ
オにすぎない。

最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言
っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法が
あると伝えた。それが逃げることだ。

もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」と
いう昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでば
らばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げとい
う教訓である。

私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、
自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配を
するなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」
と伝えた。

どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れる
のは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることがで
きる。私は、今回の震災で命を落とした少女たちの声に耳を傾け、防災教育の広
がりに微力を尽くしていきたいと、あらためて思いを強くしている。
(以上、引用終り)

●実践的なことは感動的だ。

教育は子どもたちに対して最も効果的。
 
うらおもて・やまねこでした。

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