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2016年8月11日木曜日

やまねこ通信363号:敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」発表後の空襲と原爆

@@@やまねこ通信363号@@@
敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」提示以後の空襲と原爆

8月は敗戦を振り返る月である。
日程を追ってみよう。

4月30日、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共
     に自殺。
57日、ドイツ、連合国に無条件降降伏。
726日、「ポツダム宣言」、日本に対する降伏勧告がトル
     ーマン、チャーチル、蒋介石の名で発表。
7月27日、「ポツダム宣言」を日本政府、論評抜きで公表。

以下、「ポツダム宣言」発表後の、本土の空襲、原爆。
81日 水戸空襲B2999機。死者242人。負傷者1293人。罹
    災人口5605人。
81日 八王子空襲 B29169機。死者445人。負傷者2000
    以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
81日 長岡空襲B29125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
82日 富山大空襲 B29174機。死者2737人。負傷者7900
    焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。
    広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
    なお、81日から翌2日未明にかけて行われた水戸・
    八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カ
    ーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日
    を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない
    作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦
    を上回るように計算されていた。
85日 前橋・高崎空襲 B2992機。死傷者1323人。
85日 佐賀空襲
85-6日 今治空襲 B29・約70機。死者454人、重傷者150人、
    被災者34,200人、市街地の80%が焼失。
86日 広島原爆
87日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。
88日滿蒙にソ連侵攻。不可侵条約をしていたソ連が日本のポ
   ツダム受諾の近いことを見越して侵攻、男性を抑留。現
   地の開拓団は女・子どもばかりとなった。
88日 福山大空襲 B2991機。死者354人、負傷者864人、焼
    失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%
   が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって
   福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
88日 八幡大空襲。B29127機。死者2952人、焼失家屋数14,
    380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投
    下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
89日 長崎原爆
89日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐
    などが大破。
89日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は
    秋田市まで響いたという。
810日 花巻空襲、熊本空襲
811日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅
    が全焼。死者約210人。焼失家屋4,506戸。
811日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空
    襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとん
    ど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
813日 長野空襲長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
814日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
814日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
814-15日 熊谷空襲 B2989機。死傷者687人。
814-15日 伊勢崎空襲 B2993機。
814-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲した
     B29が帰路に余った爆弾を投下した。
814-15日 土崎空襲 B29132機。死者250人超、製油所全滅。
814日、ポツダム宣言受諾を日本政府は駐スイス及びスウェー
     デンの日本公使館経由で連合国側に通告。
815日に国民に発表された。玉音放送。
92日、降伏文書(休戦協定)に調印。東京湾内に停泊する米
    戦艦ミズーリの甲板。日本政府全権重光葵、大本営
   (日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言
    の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印。宣言
    は外交文書として固定された。
    (以上、Wikipedia参照)。

▲ミズーリ号上の調印式で、日本国の無条件降伏が確定した。
7月27日以後は、ポツダム宣言受諾をいつ大本営がするかの
「猶予期間」だった。その中、8月には全国の空襲と原爆投下
が連続した。大日本帝国に無条件降伏受諾を促すためのものだ
った。このことを、国民は全く知らされていなかった。

滿蒙開拓と残留孤児さがしの山本慈昭を描いた映画「望郷の
鐘」は、終戦のわずか3カ月前に満蒙開拓団に送り出された物
語である。山田火砂子監督は語る。
「約27万人の開拓団の人たちは8月の旧ソ連参戦で置き去り
になった。日本へ、故郷へ帰ろうと逃げまどい、飢えや寒さで
バタバタとたくさんの人が亡くなる。そして、多くの残留婦人、
残留孤児をつくってしまった。8月に滿蒙開拓に向かった人々
がいたことを聞いた」。

大日本帝国の大東亜戦争下、国民はほとんど何も知らされてい
なかった。
今日の私たちは、果たしてどれだけ知らされているのだろう?



うらおもて・やまねこでした。

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