ページビューの合計

2016年8月1日月曜日

やまねこ通信361号:滿蒙開拓の歴史が私たちの地域にも!戦争中の修練農場を平和教育の場に

@@@やまねこ通信361号@@@
滿蒙開拓の歴史が私たちの地域にも、戦争中の修練農場を平和教育の場に

滿蒙開拓は、中国東北部の旧満州にだけ、その歴史を刻ん
でいるのだろうか?じつは、身近な所に、滿蒙開拓の歴史、
戦争の歴史が隠れていることが分かりました。

▲高速の中央道諏訪南インターから蓼科方面に向かう新し
い道路、八ヶ岳連峰の西麓を走る八ヶ岳エコーライン。一
番塚で右折すると、道は八ヶ岳登山口のひとつ美濃戸口の
方向に。正面の山並みに向かって進んでゆくと、しゃれた
レストランやカフェが点在しリゾート客で賑わう界隈に。
やがて御柱祭の柱を寝かせる綱置き場。綱置き場から間も
ないところの右手に見える建物。これが八ヶ岳中央農業大
学校です。古びた建物が点在。さらに山に向かって進めば
フェンスの中に牛や豚の姿も。チーズなどの乳製品を販売
する洒落た店舗もあって、いかにも牧場らしいのどかな風
景が広がっています。

この八ヶ岳中央農業大学校の前身が何だったか、知る人は
ほとんどありません。

▲八ヶ岳中央農業大学校、HPによる現在の紹介をまるごと
引用しよう。
 長野県八ヶ岳山麓、諏訪盆地を見下ろす標高1,300mの高原
に拓けた270ha余の大農場、ここが八ヶ岳中央農業実践大学
校です。本校は長い伝統に培われた実践的な学習内容と八
ヶ岳を仰ぎ日本アルプスを望む雄大な自然環境において日本
一の農業大学校です。
昭和13年、疲弊した農村経済の復興にあたる全国的指導者の
養成を目的に本校は設立されました。初代校長は、元農林大
臣の石黒忠篤先生、二代目校長は元高知大学学長の久保佐土
美先生です。卒業生はおおよそ三千名で国内のみならず世界
中で活躍され、一流の農業経営者や農村の指導者はもちろん
のこと、農業団体や政官界などで多くの先輩方が活躍されて
おられます。
1934年(昭和9年) - 農村更生協会設立
1938年(昭和13年) - 八ヶ岳中央修錬農場開場
1946年(昭和21年) - 八ヶ岳高等農林講習所と改称
1949年(昭和24年) - 八ヶ岳経営伝習中央農場と改称
1973年(昭和48年) - 八ヶ岳中央農業実践大学校と改称
1978年(昭和53年) - 専修学校として認可される 
HP記載以上。

▲ここにある「長い伝統に培われた実践的な学習内容」の中
身が何だったのか?これこそ、滿蒙開拓に人々を送り込むた
めの修練施設。それが現在の八ヶ岳中央農業大学校設立の目
的だった。

▲八ヶ岳中央修練農場の歴史。
1938年4月(昭和13年)御柱祭りの年、八ヶ岳中央修練農場
が開場。原村の俎原(まないたばら)の地(現在長野県諏訪
郡原村17217118)に設立された。設立したのは、社団法人
農村更生協会。会長は石黒忠篤であった。三井報恩会、三菱
合資会社、原田積善会より5ヵ年50万円を寄付した。校舎
は諏訪中学の学生寮道志社を移築。

この原村俎原に決定するまで、諏訪地域で幾つかの候補地が
あった。けれど入会権をもつ財産区の反対が強いため、決定
にいたらなかった。この地に注目したのは、石黒の農林省同
僚、小平権一であった。小平権一は茅野市米沢出身。その長
男が数学者の小平邦彦である。石黒忠篤初代場長は土地探し
の段階から参加していた。

▲八ヶ岳中央修練農場は、先に設立された長野県立御牧ヶ原
修練農場の八ヶ岳分場の位置づけだった。滿蒙開拓に向かう
人々が全国から集まり、ここで団体生活を行った。

設立の日の新聞記事を開いてみよう。写真入り2段組の記事
である。

見出し:八ヶ岳修練場 三日入場式挙行 最高峰施設ここに
成る
[上諏訪電話]農林省農村更生協会が全国農民道場の最高峰施
設として建設した八ヶ岳中央農業修練場は41日開場更生協
会長石黒忠篤氏始め本県水川企画課長農林省竹山技師その他
多数来賓を迎えて三日午前九時から入場式を挙行し修練農場
主事として鳥取高等農林学校教授を辞めて赴任した久保佐土
美氏以下藤岡、渡辺、添出各教官及び第一期修練生京都帝大
卒二名三重に鳥取各高等農林卒各三名の八名が列席し久保主
事の開辞君が代合唱裡に国旗掲揚石黒会長の式辞来賓の祝辞
修練生代表京大岡田正路君の宣誓等ののち弥栄を三唱して閉
式した。
 
尚、来る十六日農林省更生部採用の大学専門学校卒業生十
五名が一ヶ月の来場するのに引き続き二十三日には産業組
合中央金庫採用の修練生三十名が一週間の予定で来場し更
に地元諏訪郡玉川、原、泉野三ヶ村中堅青年四十名も八日
から一週間入場して修練を受けるはずであるが、修練生の
日課は午前5時半起床。洗顔、室内外清掃整頓、6時点呼、
10分礼拝、君が代合唱、天皇陛下万歳三唱、弥栄、朝礼・
体操(やまとばたらき)、行進、40分の駆走または作業、
7時朝食。

8時から雨天の場合室内で学科、晴天の場合、当分の間寄宿
舎の整備に農具舎、家畜舎等の建築と開墾行い、昼食に1時
間休むのみで、午後五時半まで続ける。
入浴後午後6時半夕食、8時半まで講話に座禅研究。点呼礼
拝ののち9時消灯の予定。炊事は一切、生徒が交代で行う。

以上は『信濃毎日新聞』昭和1345日付である。
毎朝の君が代合唱、天皇陛下万歳三唱の他に、「やまとばた
らき」という体操をする日課。これは一体、どんなものなん
だろう?
 
▲さらに、八ヶ岳修練農場を利用したとある長期の講習会の
日程を覗いてみよう。満州移住協会・農村更生協会との共同
開催「指導員錬成講習会」1940年(昭和15年)である。この
中に、八ヶ岳修練農場が組み込まれている。

95日長野県小県郡別所村の常楽寺で開講式:講義と経済更
生の模範村小県郡浦里村視察。
912日長野県八ヶ岳修練農場:午前中講義、午後集団農作業。
加藤完治来講し満州移民の必要を説く。分村を計画している
諏訪郡富士見村と下伊那郡泰阜村の視察。
103日満州にわたり各地を視察。1022日帰国し閉校式。

以上のように、八ヶ岳修練農場(現在・八ヶ岳中央農業大学
校)は、滿蒙開拓に志願する人々が、合宿する農林省直結の
訓練施設だった。滿蒙開拓少年義勇軍は、茨城県内原の訓練
施設で3ヶ月を過ごした。滿蒙開拓分村・移民の人々にとって、
八ヶ岳修練農場は同じ役割を果たしたと思われる。

▲戦争の歴史を見直す時が来ている。
LCVの早出伸也ディレクターが制作した『満洲富士見分村・戦
70年後の証言』201611月放映、再放送が、ギャラクシー賞
を受賞した。滿蒙開拓経験ある高齢の方々の語りを丁寧に聞き
とる姿勢に好感が持てた。

実は、NHKが八ヶ岳農場を取材した。どれほど歴史が明らかに
なるだろう?予定されている番組は次の通りである。

NHKスペシャル「村人はこうして満州へ送られた ~国策『満蒙
開拓』71年目の真実~」(仮)
放送時間:2016814() 午後900分~949

▲八ヶ岳農業修練場の歴史は現在ほとんど知られておらず、今
日の農業大学校のHPは、開場の年と旧名を記すのみで滿蒙開拓
についての記載がゼロである。

やまねこたちは、阿智村の滿蒙開拓平和記念館を訪問して、学
校で教わらない戦争の歴史を学んだ。
そこには次のことばが掲げてあった。

未来に向かって

あの時代に問いかけてみます。
なぜ、「満州」へ行ったのですか。
今を生きるあなたに問いかけてみます。
あの時代に生きていたら、どうしますか。

日本と中国双方の人々に
多くの犠牲者を出した
「滿蒙開拓」とはなんだったのでしょうか。

長く人々の心の奥に
閉ざされていた記憶に寄り添い、
向き合いにくい真実に
目を向ける時がきました。

この歴史から何を学ぶのか、
私たちは問われています。
「負の遺産」を「正の遺産」へと
置き換えていくこと、
その英知が私たちに問われています。

歴史に学び、今を見つめ、未来をつくる。
同じ過ちをくりかえさないために。
平和な社会を築くために。

▲滿蒙開拓の歴史は、加害と被害の両面をもっている。農業修練
場の歴史を「負の遺産」として仕舞い込むのでなく、平和教育
に役立つ「正の遺産」に転換することができないだろうか。


八ヶ岳西麓のリゾート地に農業修練場の歴史を振り返る場が誕生
することを願わずにいられない。そうすれば滿蒙開拓の歴史の奥
行が多くの人々の知るところとなるだろう。その日の来ることを、
強く願っている。



うらおもて・やまねこでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿