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2016年8月7日日曜日

やまねこ通信362号:滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

@@@やまねこ通信362号@@@
滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

滿蒙開拓平和記念館に、やまねこの仲間、ちの男女共生ネ
ットが募集した27人が訪問した。2週間前の7月24日。
勉強会の折には毎回資料を作成してきた。

今回は、八ヶ岳西麓に、戦争の史跡が見つかったことを資
料に報告した。それこそ八ヶ岳修練農場、現在の八ヶ岳中
央農業大学校である。

滿蒙開拓に向かう人々を全国から集めた訓練所、八ヶ岳修
練農場の歴史は公開されていない。中国東北部の旧満州に
行かなくても国内に史跡がある。

目下、歴史を公開して、平和教育の場にすることを、新聞
を通じて訴えようと努めている。
信濃毎日新聞、毎日新聞、中日新聞、長野日報の4紙である。

▲長野県は滿蒙開拓に全国最大の人々を送った県である。
県内に、八ヶ岳修練農場の他に、県立の修練農場が二箇所
あった。

長野県立御牧ヶ原修練農場開設。19349月(昭和9年)。
(現在小諸市の県立農業大学敷地)
1936年9月(昭和11年)に「県立満州農業移民訓練所」が
併設された。

設立概要には目的が書かれていた。
「県内未開墾地開発、並びに滿蒙曠野に於ける農村建設の
聖業達成に努めんとす」。
設立規定には所長:長野県学務部長、県経済部長などの県
庁の役職の他に信濃教育会長が並んでいる。

次は女子の訓練所、「大陸の花嫁」養成学校だ。
★長野県桔梗ケ原女子拓務訓練所を、東筑摩郡広丘村桔梗
ヶ原に設立。(現在・塩尻市広丘野村)19407月(昭和15
年): 「大陸の花嫁」の養成。日本最初の女子拓務訓練所
として設立された。
目的:「興亜の聖業に率先尽力せんとする者に対し、精神
的陶冶を行い、特性を涵養し、かつ必要なる知識・技能の
修練を施す」。

科目:修身、作法、公民科、農民道、開拓精神、満支及び
南洋事情、満支語、興国運動、育児衛生、家事裁縫、耕種、
要畜産加工、実習作業の13科目。そのほかに朝の礼拝(君
が代斉唱、直後奉読、皇居遥拝)、日本体操(やまとばた
らき)、神社参拝など。

内原訓練所長の加藤完治は1940年桔梗ヶ原の入所式に
列席し式辞を延た。「内原訓練所と表裏一体をなして、東
亜民族協和の楔たらんとする有為の女性が、ここから続々
生まれ出ることに期待をかけるものである。長野県は全国
に先んじて大陸発展の計画を実践しているが、まだまだ生
ぬるいと私は思う。ここへ入る女性は、入所と同時に満州
へ渡ったと全く同じ気持ちで真剣勝負をしてもらいたい」。
『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
協議会・編、大月書店、2000年。

以上、御牧ヶ原、桔梗ヶ原の訓練所は、滿蒙開拓の史跡と
して公開されてはいない。桔梗ヶ原は、広丘の住宅地の中
に、小さな表示が立っているという。

▲長野県から多数の少年義勇軍が志願した背景に、信濃教
育会の存在が大きい。
信濃教育会は、全国で8万人を超え、長野県では7000
人に届こうとする大量の少年義勇軍を送り出した長野県で、
影響力の非常に大きな団体である。信濃教育会は「興亜教
育」をかかげて全力をあげて学童を義勇軍募集に向かわせ
た。このことは多くの人の証言が語っている。義勇軍の志
願者の動機を調査した結果、最大の動機は、「教員の勧め」
だった。

県から各地域に一定の志願者を出すように割り当てが下る。
教員は担任するクラスの児童に少年義勇軍に入隊するよう
に学校で勧める。「お国の役に立てる」ことを授業で語る。
さらに生徒の家庭を幾度も訪問し、義勇軍応募を勧めた。
その結果、例えば22人のクラスで3人が志願した。強制で
はないと教師は語るが、義勇軍の意義を語って子どもたち
の意欲を強く促進したのだ。

滿蒙開拓少年義勇軍に応募を促した教員たちを束ねる信濃
教育会。戦後、その歴史を見直し責任を取る姿勢があった
だろうか?

戦後37年目、太田美明元会長は語っている。「信濃教育
会が戦争に協力したといってもね。国や県の政策に応じて
やっただけ。反省するとすれば、それは国や県の仕事だよ。
われわれがやる必要はないし、またやるべきではない」。
1982年(昭和57年8月13日朝日新聞)。

▲けれど、教員全員が太田元会長と同じ気持ちだったので
はない。『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴
史教育者協議会編(大月書店、2000年)という本は、本稿
を書くにあたって大いに役立った貴重な書物である。この
本は、長野県が滿蒙開拓への「送出」全国一の理由は何か
を検証している。
1 養蚕王国の壊滅
2 農村経済更生運動の中から生まれた「満州分村移民計
    画」
3 信濃教育会のかかわり

会の創立(1886年明治19年)以来、海外発展思想が
芽生える。やがて行政と深く結びつく。南米ブラジル移民、
次に滿蒙移民。1933年(昭和8年)信濃教育会に滿蒙
研究室常設部が設置された。後に東亜研究室、大東亜研究
室と改称する。
・更科農業拓殖学校設立(1936年)。
・『滿蒙読本』や『満州農業移民』などを刊行し、「五族
   協和」思想を普及した。
・県立桔梗ヶ原女子拓務訓練所設置。「大陸の花嫁」養成。
・「興亜教育」推進のため、大集会、研究会を積極的に開
  いて「送出」の具体策を作って推進。
・滿蒙視察を常に続けて『信濃教育』にその報告を掲載。

▲波田小学校の興亜教育。
1939年(昭和14年)「高小卒業の半数腕組んで大陸
へ」
の見出し。波田小高等科卒業生男子71名中34名が青少
年義勇軍として内原訓練所へ。
県視学の野村篤恵が1936年波田小校長に。翌年「滿蒙
開拓少年義勇軍」が閣議決定され「国策」になった。

人数送り出した長野県の教員集団、信濃教育会がどのよう
に活動したかの歴史を集団で掘り起こしている。

▲さらにメディアの責任。『信濃毎日新聞』主筆、桐生悠
々は「新満州における信濃村の創造」と題して次のことを
説いた(1932年昭和8年)。

・日本文化の歴史的使命としての移民の意義を説く。
・現地の事情は、「動物の生活のそれに等しい生活水準を
持つもの」、「豚の住む穢土」と伝え、日本人による教化
を煽動した。
・その後、「二・四事件」など、戦時体制批判は徹底弾圧
を受け、桐生悠々は退社を余儀なくされた。ジャーナリズ
ムに対する軍事統制が強化され長野県は『信濃毎日新聞』
一紙に統一。
▲桐生悠々の論調を背景に、滿蒙への「送出」は、「略奪」
された土地への入植との意識よりもむしろ、大自然の原野
を自由に切り開く使命感を底流に持っていたのではなかっ
たか。

▲関連する人物:
石黒忠篤:1884年(明治17年)19 - 1960年(昭和35
年)310日)
八ヶ岳修練農場初代場長。東京帝国大学法科大学卒業、農
商務省に入省。農林次官。農村更生協会会長、産業組合中
央金庫理事長などを歴任。1940年(昭和15年)、第2次近衛
内閣の農林大臣に就任。
この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本
農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に
取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神
様」と呼ばれる。大正末期以降、小作立法制定に精力を費
やす。1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見
いだし、加藤完治とともにその推進役となる。また、戦争
に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一
最後まで反対。(Wikipedia参照)

★小平権一:(1884-1976年)、八ヶ岳修練農場を着想し
た。日本の農政官僚、政治家。数学者の小平邦彦の父。長
野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助
の長男として生まれる。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵
高等学校)を経て、第一高等学校工科を途中休学、東京帝
国大学農学科および法学科卒。農商務省に入り農政課に配
属。石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。農務
局長、経済更生部長を経て1938年に農林次官。小作立法、
産業組合の保護育成、農業保険制度、農業金融の改善充実、
農産物の価格安定など農政の主要課題の企画立案に当たっ
た。経済更生部長時には、農業恐慌にあえぐ農村の再建の
ため農山漁村経済更生運動を指導し、小農経営を産業組合
に結集して農業経営の組織化を唱導。千石興太郎を指導者
とする産業組合拡充運動と呼応して「協同組合主義農政」
を推進。1942年には衆院議員、1943年には中央農業会副会
長。改組後の全国農業会副会長として戦中・戦後の混乱期
の協同組合組織の最高責任者。1944年には中央農業会から
家の光協会を独立させ会長就任。戦後は農林中央金庫監事、
協同組合短期大学教授。(Wikipedia参照)

★加藤完治:1884年(明治17年)122 - 1967年(昭和
42年)330日)は、日本の教育者、農本主義者、剣道家。
当初は熱心なキリスト教徒。後に古神道に改宗、筧克彦の
古神道に基づく農本主義を掲げ、関東軍将校で満州国軍政
部顧問の東宮鉄男と満蒙開拓移民を推進。満蒙開拓青少年
義勇軍の設立にかかわり、1938年(昭和13年)、茨城県内
原町(後に水戸市)の日本国民高等学校(1935年に移転)
に隣接して、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設。8万人
を輩出した。
2次世界大戦後、公職追放。GHQからA級戦犯として召喚
された。1953年(昭和28年)日本国民高等学校校長に復帰
のち名誉校長。1967年(昭和42年)死去。現在の学校名は
日本農業実践学園。

伊沢修二:1851630日(嘉永462日)- 1917
(大正6年)53日)信濃教育会名誉会員。1903(明治36
年)「信濃教育と対外思想」講演で、満州が日本の着目す
べき土地であることを最初に説いた。日清戦争後台湾にわ
たり植民地台湾の日本家教育を企画、日本の植民地教育の
創始者。東京師範学校長、東京音楽学校長。(『信濃教育』
202203号)

★社団法人農村更生協会:苦境にある農山漁村救済のため、
石黒忠篤事務次官の農林省に経済更生部が新設され小平権
一が部長に就任。1934年(昭和9年)石黒忠篤会長のもと設
立。八ヶ岳修練農場を設立。

★被差別部落との関わり:差別を改善する団体、中央融和
事業協会は、1940年、農林省指定の満洲分村移民に向けて
特別指導地区を指定した。満州移住協会・農村更生協会と
の共同開催により99月に大規模な資源調整指導員錬成講
習会を開催。

満洲来民(くたみ)開拓団:熊本県鹿本町に「満洲来民開
拓団供養塔」が建てられている。死者275人。集団自決での
死者だった。1942年(昭和17年)ひとつの「部落」が全村
で満州に移民した全国で唯一の例であった。外地での「差
別からの解放」が念願だった。敗戦後集団自決をした。男
性ひとりは結末を報告するため帰国。故郷では、親が子を、
子が親を手にかけ自決したことが部落ゆえと非難された。
・被差別部落から満州に移民した人々は差別の解消を願っ
ていた。しかし満州で召集された時、軍隊の中での差別が
消えなかった。国内での差別は、国境を越えても解消され
ない。この一例となった。

原村の八ヶ岳中央農業大学校が、かつて八ヶ岳修練農場の
名で、滿蒙開拓に向かう人々の訓練所であったことを知っ
たのは、近代の被差別部落の歴史を調べる中のことであっ
た。

★参考図書:
・『長野県満洲開拓史 総編』長野県開拓自興会満洲開拓史
 刊行会、1984年(昭和59年)
・久保佐土美『八ヶ岳農場物語』私家版、1974年(石黒忠篤
 に次ぐ二代目場長、元高知大学学長の著。滿蒙の語が一度
 も登場しない)。
・『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
 協議会編、大月書店、2000
・藤野豊『被差別部落ゼロ?近代富山の部落問題』桂書房20
 01年、p162
・蘭信三『満州移民の歴史社会学』行路社、1994年。
・高橋幸春『絶望の移民史 満州へ送られた「被差別部落」
 の記録』毎日新聞社、1995年。
・『信濃毎日新聞』修練農場開場の新聞記事、昭和13年4
 月5日(御柱祭りの年)他。

▲来週放映予定のこの番組は、八ヶ岳修練農場を取材してい
ます。

NHKスペシャル「村人はこうして満州へ送られた ~国策
『満蒙開拓』71年目の真実~」(仮)
放送時間:2016814() 午後900分~949



うらおもて・やまねこでした。



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