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2011年8月12日金曜日

『ほむら色の空』、戦争体験の語りと、子どもたちの自尊感情

@@@@やまねこ通信125@@@@

82日は富山大空襲の日である。この日に合わせてお伝えしようと思っ
ていたやまねこ。日付が10日ばかりおくれてしまいました。富山大空襲に
関わりのある皆様、失礼しました。

今から66年前、1945年82日の夜、富山市に米軍機B29の群れが飛
来した。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24914戸(市街地の99.5
%)。罹災人口109,592人。(広島、長崎を除けば、地方都市として最大の
被害)。

81日から2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対す
る一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自分の昇進と陸軍航空隊発足
記念日を祝福する目的であった。
・一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノ
ルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。(以上Wikipedia
参照)


終戦記念日815日は正午の武道館の式典を、毎年欠かさず見て来た。
けれど、富山大空襲のことは、18歳で富山を離れてからほとんど思い出し
たことがなかった。ところが『ほむら色の空』(桂書房、1997年)という絵本
を読んでから、富山大空襲は他人事ではないことを思いだした。

『ほむら色の空』は母親を空襲で亡くした前野時子さんが著した絵本である
。前野時子さんは旧姓を奥田時子といい、やまねこの親族である。時子さ
んの父上(奥田吉)がやまねこの祖母(章)の弟。だから彼女はやまねこ
の父の従妹の一人なのである。

やまねこの祖母の一家は長女章、次女宣、三女倫、長男吉、次男貞吉、
四女舒、三男達吉、五女昌の8人きょうだいであった。その父奥田弥之助
は旧制魚津中学、富山中学の漢文と修身の教師を勤めた。この一家がど
うやって多数の子どもを育て、その後、子どもたちがどうしたのかは、また
別の物語である。

ここでは『ほむら色の空』に描かれたときちゃん一家のきょうだいの話をし
よう。長女あっちゃん、長男しろちゃん、次女てるちゃん、次男けんちゃん、
三女とよちゃん、四女ときちゃん、五女やすちゃんの女5人男2人のきょう
だいである。1930年から1年おきに生まれた7人の子どもたちを、やまね
こは祖母の呼ぶ仕方で呼んでいた。

1945年、82午前036分大空襲の日、1歳のやすちゃんは長女あっ
ちゃんの背中に、3歳半のときちゃんはお母さんにおんぶされ、焼夷弾の
降る中を逃げまどった。

「赤ん坊の泣き声が聞こえた。それは自分の泣き声であることに気づいた
」。焼夷弾が頭に当たってお母さんが仰向けに倒れたので、ときちゃんは
下敷きになって、苦しさのあまり大泣きした。
このことを、最初の記憶として『ほむら色の空』に書いた。

空襲から四日後、市内の寺院で、折り重なり身元が判然としなくなった遺
体の山から、母の遺体をようやく兄たちは発見した。財布の刺繍が母の
遺体をつきとめる手掛かりだった。それから兄たちは母の遺体を焼いた。
このあたりの事情については、長男のしろちゃん、奥田史郎さんの書いた
『八月二日、天まで焼けたーー母の遺体を焼いたこどもたち』(奥田史郎、
中山伊佐男、高木敏子序文、高文研、1982年)に書かれている。

終戦間近の空襲で、乳飲み子含む7人の子どもを残して母が亡くなったの
である。ただでさえ食べ物が手に入らない暮しの時代。一家はお父さんと
長女のあっちゃんが相談しながら家事をするようになった。富山県立女学
校の生徒だったあっちゃんは、一家の主婦を務めるため、中途で退学した。

末っ子のやすちゃんは、雨の日、東京に住む昌叔母さんの家に引き取られ
ていった。やすちゃんはそれからときちゃんが小学校に入るまで、東京で育
った。ときちゃんも引き取られるはずだったが、恐ろしい眼で睨みつけたた
め、富山にとどまったという。

引き取ってくれる叔母さんをわるい人だと子どもたちは思い、可哀想なやす
ちゃんを、全員で見送った。子どもたち7人の姿を細かに描いているときち
ゃんの絵本は、やまねこの知らなかったものを知らせてくれた。

奥田の家の戦後の物語は、祖母から頻繁に聞かされていた。祖母は子ど
もたちの楽しい出来事の折に、「あんたたちは幸せだ。だけど奥田の子ど
もたちは母親が死んでしまって可哀想に」とすすり泣いては、全員の楽し
みを台無しにした。それだけではなかった。「有り難く思われ」命令するよ
うに最後に付け加えるのが祖母の常であった。

母親が生きるか死ぬかは、子どもの責任ではない。子どもは現在の人生
を、自分で選択したわけではない。子どもはどんなに努力をしても、別の
人生を選ぶことはできない。自分の現在を日々受け入れるだけである。
そこに突然、「有り難く思いなさい」と言われても、一体誰に対して何を感
謝すればいいのだろう?今のやまねこなら、こう切り返したであろう。

子どもたちが承諾し難い思いでいることを察して、父が反論したこともあ
るが、あまり説得力はなかった。戦災の話題が繰り返されるたび、祖母は
同じことを繰り返した。だから家族の者たちは、できるだけその話題を避
けるようになった。

『ほむら色の空』のあとがきに前野時子さんは書いている。

「お母さんと かわっていれば よかったのにね」
言われるたび 幼子は
身の置き所のない思いをした。
お母さんのいない子どもは 胸に
白いカーネーションを つけさせられて
母の日が めぐりくるたび
少女のころ、 体が凍る思いをした。
ほむらいろの 夜を 思いだすたび
「わたしが ふとんを 飛ばさなかったら
母さんは 死ななくても よかったのに」と
とよこ姉さんは いつまでも思いつづけた。(以上引用)

大人たちが生き残った子どもに向けた言葉、「お母さんと かわっていれ
ば よかったのにね」。
この言葉は、子どもの自己肯定感、自尊感情をどれほど損ねたであろう。

「お前は、ここにこうして生きていることは許されないんだよ。本当なら、お
母さんに代わって、お前が死んだら良かったのだ」
こう言われると同じなのだ。

やまねこの祖母が孫たちに「有り難く思われ」と命令するように語る時、祖
母はいったい何を伝えたかったのだろう。

「お前たちは、不当に幸福を謳歌している。しかしもっと恵まれぬ子どもた
ちが他所にいる。お前たちの幸福は、本来許されないはずなのだ。他所
の子どもたちに譲っていいはずなのだ。そうしないのだったら、せめて感
謝して幸福を有り難く受け止めなさい」。

祖母の言葉は、ときちゃんが受けた言葉と同類の言葉ではないだろうか。

どちらの言葉も、子どもたちが生得的に得ていて当然の「生存する権利」
を、認めていないのである。そうではなく、まるで子どもの生存の事実が、
「不当に掠め取られたもの」であるかのように、子どもに伝えている。どち
らの言葉も、子どもの自己肯定感、自尊感情をいたく損ねてしまう。

こうした言葉が内面に刻まれ、とよちゃんは「わたしが ふとんを 飛ばさ
なかったら、母さんは死ななくてもよかったのに」と66年後の今日まで自
分をさいなんでいるのである。

それではこのことを語った大人たちの目的はいったん何だろう?
やまねこの祖母においては孫である子どもたちを支配したかったのだろ
うと思う。そのことを通じて嫁である子どもたちの母を。そうして息子であ
る父を。自分が一家でいちばんエライ。こう言いたかったし思いたかった
のだろう。

それにしてもどうして祖母が日常的にこうした支配的言語を孫たちに投
げかけたのだろう。祖母はありのままの人生の何が不満だったのだろう
?このことはまた別の物語につながってゆく。

話は逸れるが、こうした「支配の言葉」を聞かされたのは、祖母からだけ
ではなかった。家族の中だけではなく、地域社会の大人たち、小学校の
先生たちなど、大人たちから頻繁に聞かされた覚えがある。大人たちが
子どもたちに伝えるところは結局「大人は偉いんだ。言うことを聞け!」
だったのではないだろうか?

こうした支配関係、屈折した権力関係の露出が、逆説的に、やまねこの
一家を、奥田一家の戦災物語から、遠ざけてしまった。戦災物語の手前
に「不透明な幕」が下ろされてしまったのだ。こうして奥田一家の人々とは、
ほとんど語り合う機会もないまま、50年以上が経過した。

ときちゃんの書いた『ほむら色の空』を読んで、やまねこは初めて、奥田
一家の物語、ときちゃんたちの物語を知ったと思った。『ほむら色の空』
によって初めて、同時代に生きた子どもの眼に映る世界を追体験するこ
とが出来たと思った。

そうして、富山大空襲の話をこのブログで伝えようと投稿を書き始めて、
2日目にようやく、奥田一家の戦災物語の前に「不透明な幕」が吊るされ
ていたことに気づいた。

ときちゃんこと、前野時子さんは「富山大空襲を語りつぐ会」会員として現
在、富山県、北陸地方を中心に、戦争の悲惨な記憶を語り伝える授業、
講演活動を行っている。

その後、こうした前野さんの活動、絵本の物語、富山大空襲の実態、「
語りつぐ会」の活動などが映像化され、ビデオ版『ほむら色の空』が作ら
れた。30分弱のこのビデオは、とても良くできている。やまねこは前野さ
んにこの絵本とビデオを贈ってもらい以後、「物語の力」という諏訪理科
大の授業で、これまで何回も利用して来た。ビデオは現在、諏訪理科大
の図書館に収蔵されている。

理大祭に来訪を依頼し、やまねこがインタビュー、せいたかせんせが司
会をしたこともあった。学生の数はごく少数だったが、地域の皆さんが5
~6名参加してくださった。この時は戦争中の思い出話に時の経つのを
忘れた。

目下、前野時子さんことときちゃんは、富山市に住み、頻繁に(週4
~5回)登山、ウオーキングをし、その中で見つけた草花の写真を、毎日
のように大量にHPに公開している。

ときちゃんのHPから「富山大空襲を語りつぐ会」の活動、それに、絵本
『ほむら色の空』も見られます。関心のある方はどうかご訪問ください。

そういえば、81日~92日まで、北陸銀行電気ビル支店で「ほむら
色の空」原画展がひらかれています。富山にお住まいの方はお立ち寄
りください。

「富山大空襲を語りつぐ会」のHP
http://toki-toyama-koki.sakura.ne.jp/8%2025%20osirase.htm
前野時子さんブログ「御隠居の気ままな日々」
http://blog.goo.ne.jp/tokiba65

うらおもて・やまねこでした。


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