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2011年8月21日日曜日

浜田知明「忘れえぬ顔A」と、『きけわだつみのこえ』という「戦後神話」

@@@@やまねこ通信128@@@@

●浜田知明という名前を最初に知ったのは「初年兵哀歌」を見たと
きである。『きけ わだつみのこえ』(光文社1959)の扉口絵に載
っていた。

「『初年兵哀歌(歩哨)』に描かれた初年兵は、銃を杖のように立
て、薄暗い部屋に一人たたずんでいる。その半ば戯画化された表情
はうつろであり、自分の顔に向けた銃の引き金を引くべきか迷って
いるようにも見え、戦争の悲哀と不条理を静かに告発している」
Wikipediaより)。

初年兵を描く細い線が小刻みに揺れてきれぎれであり直線がどこ見
当たらぬ輪郭。鉄兜の頭ばかりが大きな兵士、一度も陽の光を浴び
たことがないような青白い大きな顔のシラミにも似た兵士の脆弱さ
が心に刻まれた。か弱くおぼつかない細い輪郭は、銅板を腐食させ
るエッチングの技法で描かれた版画であったことをやまねこが知っ
たのは、ずっと後のことである。浜田知明は版画家、彫刻家である。

『初年兵哀歌(歩哨)』シリーズは1954年にかけて計15点が制作さ
れた。中でも1954年作のは高い評価を得、1956年のルガノ国際版画
ビエンナーレで受賞している。

●その浜田知明が毎日新聞に登場していた。「開戦70年の夏」シ
リーズ、「中国で見た娘の顔、悲劇 絵で残したい」浜田知明は1
917年生まれの現在93歳である。記事は岸桂子という女性記者
によるインタビューをまとめたものである。

●ほぼ全文を最初に引用しよう。(引用元:毎日WEB)
「1941年12月8日の真珠湾攻撃のことをどこでどのように知
ったか覚えていない」と浜田知明は語る。4年にわたる中国従軍の
ただ中だった」。

「浜田さん自身が「命だけは助かった」と感じることとなったのは、
45年8月15日。伊豆諸島の新島にいた。
43年8月に兵役満期で帰国したが翌年7月、再び応召していた。
「若い男が残っておらず、覚悟していました」。戦況の悪化は疑い
ようもない。「1度目は華やかな見送りがあったのに、今度は家族
にも知らされず、夜闇にまぎれての出発でした」

「新島では、単純労働の毎日。「ジャングルにスコップとつるはし
だけで自動車道を新たにつくり、山頂にはトーチカ(防御陣地)を
築きました。時折、美しい海を眺めては『ここが米軍に攻められた
ら全滅だ』と思っていましたが、新島など相手にされなかった。B
29は我々の頭上を見事な編成で飛び、南方から直接本土を襲撃し
たのです」。

「「あの日」も、完成したトーチカに大砲や弾丸を運び入れていた。
中隊長が「重大な放送があるようだ」と山を下り、戻って来ると「
戦争に負けたらしい」と言った。「まだ頑張るぞ」などと話し続け
る中隊長の声を聞きながら「とにかく助かった、とほっとしました
」。

「壊滅的な打撃を受けた日本の今後を案じる思いはあった。一方、
中国従軍時から「日本は戦争に負けない限り再生できない」と心の
底で感じていた。「こんな軍隊を持つ国が世界をリードするなんて
とんでもない」」。

「敗戦から5年後、浜田さんは、軍隊の不条理を主題にした銅版画
シリーズ「初年兵哀歌」の創作を開始した。戦争の愚かさを今に伝
える傑作として、国内外の美術館に収蔵されている。その後は「人
間の探究」をテーマに据え、従軍経験を直接の主題にすることはな
かった。
それが昨年、神奈川県立近代美術館葉山で開いた個展で、中原会戦
時に焼き付いた顔や、行軍時の光景を描いたデッサンを発表した」。

「ここ十数年は彫刻ばかりで絵から遠ざかっていたのですが、最近、
戦場で自分が感じたことを描き残しておきたいと思うようになりま
して」と静かに語る。すでに数少なくなった戦争体験者は多くを語
らず、「愛国心をあおって勇ましいことを言う」一部の論調にも危
惧を覚えるという。

この夏は、沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館で個展を開催中だ。「初
年兵哀歌」や彫刻など約60点を展示している(9月26日まで)。
「戦争を繰り返してならないのはもちろんですが、戦場ではさまざ
まな悲劇が付随して起こることを忘れてはいけません」。浜田さん
は力を込めた」(以上引用)。

  やまねこにとり、重要な部分はこの先である。
真珠湾攻撃を知ったのはいつどこであったかほとんど覚えていない
浜田知明の、脳裏から消えない「事件」が、その年に起こった。

「「事件」は41年5~6月、中原会戦の時。自軍の被害が少なく
相手方に甚大な被害を与えて「模範的作戦」とされた。ある日、集
落で休憩をとることになった」。

「戦友2人と段々畑を上った先に家があり、若い娘と母親が、窓か
らこちらをのぞいていたんです。娘は鍋墨(なべずみ)を顔に塗っ
ていましたが、若さは隠せません。母娘が我々を見つけた時の、恐
怖の顔といったら……」

「戦友の一人が「殺そう」と言い出した。「止めましたが、男は銃
を置いて家の中に入った。しばらくして、服を整えながらニヤッと
笑って戻ってきたんです」。その表情で、家の中で起こったことを
悟った。「仲間を殺したくなりました。軍隊の中には愚劣な人間が
いたのです」

「男が家を出た後、娘は再び窓からこちらをじっと見つめていた。
「その顔は、さっきと全然違っていた。『とにかく命だけは助かっ
た』という、何とも言えない表情でした」。以来、事件前後の娘の
顔と戦友のうすら笑いが忘れられなくなった」。
(以上、毎日WEB)

「忘れえぬ顔A」は、最初に日本軍を見つけた娘の“恐怖の表情”
である。娘の顔は、眼が大きく見開かれ、黒目がその中に宙づりに
なり、口も鼻も顔全体が歪んでいる。
鍋墨で顔を黒く塗り、ジェンダーをできるだけ隠そうとして身を潜
めていた母と娘の恐怖感は、浜田知明の「戦友」にとり、慌てふた
めく虫けらの慄きだっただろう。暴かれた蟻の巣の中で、逃げ惑う
無数の蟻を泥靴で踏みにじる者たちの薄ら笑いを、「戦友」は浮か
べて戻ってきた。「どうだ、おれは強いんだぞ。逃げられるものな
ら逃げてみろ」。

「仲間を殺したくなりました。軍隊の中には愚劣な人間がいたので
す」。「戦友」の表情で、家の中で起こったことを悟った浜田知明
は、今こう語る。「事件」から70年後、浜田知明はこの時の「忘れ
えぬ顔A」を絵で表現し、公開した。

◇浜田知明(はまだ・ちめい)
1917年12月23日熊本生まれ。熊本県立美術館に常設展示室
「浜田知明版画室」がある。

浜田知明「初年兵哀歌」


  『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』
『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(日本戦没学生手
記編集委員会編、光文社〈カッパ・ブックス〉、1959年、新版)は、
中学時代のやまねこの愛読書だった。中学時代に自分の小遣いで買
った少数の本の一冊である。

やまねこが『きけ わだつみのこえ』を知ったのは、中学一年のク
ラス担任吉田英子先生の影響である。先生は東京女高師出身の理科
の先生だった。今のお茶の水女子大である旧制の女高師の学生だっ
た頃、寮の消灯時間の後に懐中電灯を灯して蒲団の中や廊下の常夜
灯の下で立ったまま、本に読み耽った話。相模湾油壺の臨界実験所
での夏の合宿の話など、旧制の学生生活の物語を、先生はやまねこ
たちに語って聞かせた。

北条誠『いのちの初夜』(角川文庫)も吉田先生から聞いて、学校
の帰りに富山市の繁華街総曲輪の清明堂で買い求めた一冊である。
ハンセン病にかかった作家の手記である。小中高を通じて、読書傾
向に影響を受けた先生は、やまねこにとり吉田先生ひとりである。

学問への情熱やみがたい大学生が、志、半ばにして徴兵され、戦地
から家族や恋人に書き送った手紙を集め、戦後に編纂された『きけ 
わだつみのこえ』。ここに書かれた戦没学生の師弟関係、読書経験
の物語は、吉田先生の語った女高師の寮生活の物語と一体に混ざり
合い、やがてやまねこにとっての学生生活のモデルになった。

自分が大学に入ったら、『きけ わだつみのこえ』に寄稿した学生
たちのような精神生活を送ろう。やまねこはこの本をよんでから心
に決めていた。大学とはやまねこにとり『きけ わだつみのこえ』
に登場する旧制帝国大学と少数の私立大学以外には存在しなかった。

高度成長中期の東京での大学生活が始まった一年目、やまねこは池
袋駅前の豊島公会堂で開かれた「わだつみ会」の講演会の聴衆に一
度だけ加わった。それは後で語るように、中学時代の印象との落差
を感じた最初の経験となった。

●『きけ わだつみのこえ』の成り立ちを紹介しよう。
Wikipedia参照)
「『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の
学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年に東京大学協同組合出版部に
より編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかな
る山河に』に続いて、1949年に出版された。BC級戦犯として死刑に
処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、
そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員と
して渡辺一夫、真下信一、小田切秀雄、桜井恒次が関わった。
この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、
立命館大学で展示されている」。

中村克郎、渡辺一夫、真下信一、小田切秀雄等、著名な戦後民主主
義の文化人たちの名前を、やまねこはこの本で知ったのだった。

●『きけ わだつみのこえ』に対する批判。
ところが、その後『きけ わだつみのこえ』に対して、幾通りもの
批判が寄せられるようになった。
まず、同書に収められた手記は、東大中心の旧制帝国大学の学生の
ものであり、私立大学はごく少数であったこと。のみならず、兵役
に出た最大多数の者たちは主に農民だった。彼らの手記は、同書に
は、当然ながら一部も載せられてはいない。物を考えたのは、帝国
大学の学生のみだったのでもあるかのように。それゆえ、一部の特
権階級「インテリの死だけを美化」したものと批判されるようにな
った。

その後、岩手県農村文化懇談会 編集の 『戦没農民兵士の手紙 』が
1960年岩波新書から出された。

Wikipediaにはさらに、別の批判を書いている。「戦争の被害者とし
ての若い世代ということを強調することから、軍国主義的内容に共
感を覚えたり、国家への絶対的な忠誠を誓う文章については、初版
本において、編集側の方針で削除されていた。こうした文章の改編
に対しては、そうした文章を削除すると軍国主義的内容への共感や
国家への絶対的な忠誠を誓うようになった背景を知る手がかりがわ
からなくなり、すべてを客観的事実として掲載するべきであるとの
批判があった」。

「立花隆は『天皇と東大』(文藝春秋)でこれを左側からの「歴史
の改竄」であると批判した。富岡幸一郎も『新大東亜戦争肯定論』
にて「遺された言葉が、戦後の反戦平和運動のスローガンに利用さ
れた」と述べている」。

最後に、「遺書が遺族に返還されなかったこと」に対して大きな批
判が寄せられている。これは「軍国主義的内容に共感を覚えた」文
章を、手記から削除し改ざんしたことを隠蔽するための行為であっ
たと語られている。

  『きけ わだつみのこえ』という「戦後神話」
『きけ わだつみのこえ』を中学時代に愛読していたことを、やま
ねこはその後すっかり忘れていた。同書の刊行収入を基金にして、
本郷新が制作し立命館大学構内に立てられた「戦没学生記念像わだ
つみ像」が、1969年全共闘によって破壊されたニュースを聞いて、
かすかに胸が痛んだことを今思いだすくらいである。

大江健三郎が恩師として事ごとに言及する渡辺一夫は仏文学者であ
り岩波文庫「100冊の本」の選定委員でもある著名な戦後民主主義
の知識人の一人である。渡辺一夫はじめ、真下信一、小田切秀雄等
戦後民主主義文化人が、旧制帝大のエリート学生の手記だけを集め、
申し訳程度に少数の私立大学の学生の手記も添え、軍国主義的内容
の中身を削除改ざんして「反戦文書」の装いを凝らして出版したこ
とを知った頃、やまねこは、1950年代中ごろの富山で思い描いた大
学生活からは、思いもよらぬ大学の文科系に在籍する学生として、
高度成長後の消費文化のただ中の東京で暮している自分を発見
のである。

中でも最大の思い違いは、自分が女だったことである。
『きけ わだつみのこえ』は一部エリート旧制帝大の男子学生の「
反戦意識」を「捏造」し、戦後の若者たちの前に「戦没学生」を普
遍化するかの装いも新たに登場した書物だったのである。

そこで「捏造」されたのは、15年戦争を指導した軍部、政府、官庁、
財閥の中枢を当然ながらに務めていた多数の旧帝大出身のエリート
男性たちの権威を棄却しながら、逆に「知的情熱あふれる清純な若
者」として新たに甦えらせた「知的エリート男性像」だったことを、
やまねこは今、ここで伝えたい。

この「戦後神話」に、中学、高校時代のやまねこは、まるごと巻き
込まれていたのである。

それから35年ほどの歳月がたち、3.11という「第二の敗戦」の今、
われわれは「原子力ムラ」という利権構造に群がる政府、官僚、東
電等電力会社、大企業、銀行、原子力学界の面々が、再び、東大中
心の「優秀な」男性たちからなっている現実を前にしている。3.11
があたかも存在しなかったかのように、この面々は、原発の現状維
持に腐心していることが日々報道されている。

こうした面々を、やまねこは「ブリキの兵隊」と呼んでいる。彼ら
は、敗戦後、今度こそは負けない日本をつくろうと懸命に努力し、
安保体制下、アメリカの庇護のもと、技術戦争経済戦争を戦って、
NHK『プロジェクトX』で賛美された男たちの後継者である。

●『きけ わだつみのこえ』の戦没学生が生きていたら、果たして
この構図とはほど遠い選択をしていただろうか?
それはあり得ない話であろうとやまねこは思う。『きけ わだつみ
のこえ』に手記を寄せた「戦没学生」たちの中に、浜田知明の「戦
友」のような人物は、果たしていなかったのだろうか?やまねこは
そうは思わない。

今日の市民社会には、戦中の兵士の強姦、殺戮を知って、「時代が
時代だから仕方がなかった」と言葉を濁す男性たちが圧倒的に多い。
これら男性の思考は「男性中心」という集団主義の枠から出ること
がない。

話は少しずれるが、IMF前理事長ストロスカーンがNYのホテルで
客室係の女性を強姦した事件を知って、「敵側の策略」と片付ける男
性が圧倒的に多いことを知った。この男性たちには、そこで被害に遭
った女の苦しみがまったく見えないのである。それだけではない。こ
うした男性たちにとり、ストロスカーンは性暴力の加害者ではない。
そうではなく、彼は政治的ワナに落ちた、同情されるべき気の毒な被
害者なのである。「あたら優秀な人材をつまらぬ事件で失った。惜し
いことをしたものだ」。これが男性社会の嘆きである。

こうした男性たちがどんな立派な政治的、経済的、技術的、学問的「
績」を残し、組織の重要な地位についたとしても、やまねこは彼ら
男性中心の集団主義の思考から逃れられない男性たちを「ブリキの兵
隊」と呼びたいと思う。

このような男性たちがこの国の中心を支配する限り、何度も「敗戦」
がもたらされ、なんどもフクシマが起こるだろう。

  「軍隊の中には愚劣な人間が<非常に多数>いたのです」

浜田知明は薄笑いを浮かべて家から出て来た「仲間」を見て、「殺し
たくなりました。軍隊の中には愚劣な人間がいたのです」と語ってい
る。このように日本軍の中に愚劣な兵士がいたことを語る物語は、一
面的な戦後のこの国の「被害者論」からも「加害者論」からも出てく
ることはないだろう。

男性中心の集団主義からほど遠い浜田知明は、「初年兵哀歌」の頃か
ら、「男らしさ」「雄々しさ」がかけらも見られぬもろい兵士を描い
ていた。浜田知明の語る「軍隊」は、今日なら男性中心の政官学およ
び企業社会そのもの意味するであろう。


「日本は戦争に負けない限り再生できない」と心の底で浜田知明は
じていた。「こんな軍隊を持つ国が世界をリードするなんて」。
3.11以後、明らかなのは、日本が「戦争に負けても再生できなかった
」歴史である。「こんな軍隊を持つ国が世界をリード」しかけて、再
度、敗戦を迎えたのである。

「軍隊の中には愚劣な人間がいたのです」と慎ましやかに、浜田知明
は語る。ここに<非常に多数>という形容詞を付け加えたいとやまね
こは思う。なぜなら、浜田知明のように語る男性は、この国ではきわ
めて少数の例外的存在なのだから。こう思うのは、はたしてやまねこ
だけであろうか?

長い文章を最後まで読んでくださって有難うございます。

うらおもて・やまねこでした。


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